18禁建築

18kin/2019

北1条教会の保存運動にイマイチ乗り気でなかった田上先生の訳

2019.02.20

札幌市中央区北1条西6丁目

解体(1979年4月)

1927年

田上建築製作事務所 田上義也
 1927年に田上先生の設計で完成して以来、札幌市民に親しまれてきた北1条教会。そんな中の1978年12月、北海道新聞の報道で、北1条教会は新しい教会堂の建設と引き換えに壊されてしまうと明らかになりました。


「不吉な、またか、と舌打ちしたい思いをかみころして市民はこの街から姿を消した幾多の建造物をまぶたの奥に思いうかべたものである。 ~そして、これらの建造物の消失になすこともなく拱手したわれわれの怠惰がいまさらのごとく悔やまれたのである。それは傍観して故郷を捨つるにも似ることであった。」 
(失われた教会堂 札幌市北1条教会堂を保存する会の記録)より


 報道を受け、更科源蔵、高倉新一郎、遠藤明久、横山尊雄、九島勝太郎、澤田誠一、木原直彦 という錚々たるメンバーが、「北1条教会を保存する会」を発足させました。


 しかし、彼らの熱い保存運動の甲斐むなしく、結局、北1条教会は翌年の1979年4月に解体されてしまいます。恐らく、札幌で初めて繰り広げられた建築の保存運動だったのではないでしょうか。田上先生の作品を残すため、そして札幌らしい美しい風景を守るために奔走した田上先生の親しき仲間たちや古建築研究者たち。ところが田上先生には、彼らの活動をどうもイマイチ喜んでいないフシがあります。前掲の「失われた教会堂 札幌市北1条教会堂を保存する会の記録」を読むと、田上先生の煮え切らない様子が感じられるのです。


 「建築の設計者って、案外そういう傾向があるもんだよな。」
と思ってみましたが、田上先生には実はもっと深い訳があるようにも思われます。

 あの解体から40年、田上先生の本音にそっと迫ってみたいと思います。
 田上先生が北1条教会についてこんな風に言ったことがあります。
 「私の最高のものではないが、若い頃、一気呵成に書いたもので、皆さんに愛されてきた。」
 更には「保存する会」での初会合では、
 「26歳の時の作品で、保存に値するかどうかはともかく、保存して頂けるなら大変ありがたい。」

 最高のものではないとか、保存に値するかどうかという言葉に、田上先生の謙虚さというよりもむしろ、文字通りの気持ちが伝わってくるような気がします。

 更に、新しい教会堂の設計を特命で依頼された田上先生、旧会堂の今後について下記のように答えられました。
 「形あるものは滅する。教会だから今まで残されてきた。昔のものに執着しない。~保存するように言ってくれる人もいる。希望としては残してもらいたいが、移築するのには1億円くらいかかるのではないか。できることなら竣工当時の原型にしてもらいたい。」

 田上先生、ポロッと漏らされました。今の姿は本望ではないのだと。

解体前の姿 薄いウグイス色

                     ↓

竣工当時の原型 濃いグレー色

 では、竣工当時の原型とはどのような姿だったのでしょうか?1979年の解体前の姿は、1951年の増築により竣工時に比べて入口周りのデザインが凝っています。恐らく、北向きの玄関では出入りのたびに風雪が会堂内に吹き込んだのでしょう。その解決のため、風除室機能を持たせた空間が要望されたのだと思われます。私個人的にこのデザインは好きですし失敗はしていないと思いますが、元のシンプルな形の方に垂直性デザインの狙いがあるという事にも理解ができます。田上先生は、この増築部分を壊して元に戻してくれと言っているのでしょうか?

 私が睨んでいるポイントはそこではなく、外壁の色なのです。

「日経アーキテクチャー 1978年12月25日号」より

 上記のカラー写真を見てみると、解体直前の外壁は、くすんだ薄いウグイス色のように見えます。ところが竣工時は、モノクロ写真から推測するに、かなり濃い色のようです。

 この件について田上先生曰く、「造形上、ペンキはグレーを押し通したが、軍艦のようだとの非難も一部にあった。」 (失われた教会堂 札幌市北1条教会堂を保存する会の記録)そうです。周囲の反対を押し切ってまでグレー、しかも教会に採用するには威圧感すら感じさせるほど濃い色にこだわったのは何故なのでしょうか?そして、田上先生は明るい色に塗りなおされた現在の外観を元の重々しい色に戻して欲しいと言っているのではないでしょうか?そうだとすれば、その事にどんな意味があるというのでしょうか?



 ところで北1条教会は、マックスヒンデルと田上先生の指名設計競技でした。田上先生は1回目の案提出に、いつもの大きな幾何学窓を正面に据え、切妻屋根と柱が連なる水平デザインを組み合わせた外観で臨みました。いわば、正面はフランクロイドライト、側面はパルテノン神殿のようなデザインです。

幻となった第1案

 しかしこれは、教会の小野村林蔵牧師に却下されて、塔を強調させた案で再提出を求められました。教会側のリクエストを汲んだ第2案は、堂々としたヒンデル案と比較検討されましたが、「日本の教会は日本人の手で設計したものを」という教会側の願い通り、田上案が採用されたのです。田上先生、後年の北海道百年記念塔の設計審査の時「北海道百年記念塔は、北海道民の設計者の手で。」という気持ちでこの時の感謝をお返ししたに違いないと、私は思っています。



 話を元に戻します。
 採用となった第2案、実は最初は木造ではなく鉄筋コンクリート造で設計されていたそうです。北海道大学 角幸博名誉教授の「マックス・ヒンデルと田上義也-大正・昭和前期の北海道建築界と建築家に関する研究」によると、下記のように記されています。


①仕様に「鉄骨小屋組」の項があるなど、実施工事と食い違う部分も見られる
②左官工事の項では「外部全部ハ人造洗出シ仕上リ 厚サ八分以上タル可シ」の記載を朱線で訂正したり
③「鉄筋コンクリート二階建」の上に付箋で「木造二階建」と訂正した部分なども見られ
④鉄筋コンクリート造と鉄骨小屋組での設計は1926年3月末には一応終了し、予算その他の事情から木造に変更され、引き続き変更図面が書かれたものと思われる



 鉄筋コンクリート造での設計案は予算その他の事情から木造に変更されて実現することになりましたが、元設計通りなら外観は人造洗い出し仕上げの計画だったらしいのです。つまり、左官の重厚感あるザラザラ仕上げなのです。ですから下見板張りに塗装された濃いグレー色は、人造洗い出し仕上げの強い存在感を意識したものだったようなのです。
 「もしも人造洗い出し仕上げのまま完成していたら、こんな保存運動がおきていただろうか?」と、つい勘ぐってしまうのはいつもの私の悪い癖です。北1条教会は木造下見板張りだったから、市民の愛着を獲得できたのではないでしょうか。


 下見板は羽目板式のドイツ下見板張りだったそうですが、札幌時計台の印象と重なって見えるのは自然なことでしょう。要するに、明治期に建てられた白ペンキ下見板張建築のハイカラさをこの教会に重ね合わせてしまうロマンチズムが生まれやすかったのではないでしょうか。北海道開拓期の建築と昭和初期の北1条教会を同列に眺めてしまう市民の目、というと口は悪いですが、この点、北1条教会の悲劇だったと思われるのです。
 だとすれば、解体時に外観がウグイス色だったという理由がそこにありましょう。つまり、市民の要望が、重々しいグレー色を明るいウグイス色に塗り替えさせていたと思われるのです。田上先生、ここに反発の心があったに違いありません。
 「北1条教会は、濃いグレーでなければならないのに。」と。



 これを踏まえて、田上先生の「竣工当時の原型にして」をもう一度考えてみたいと思います。


 田上先生にとって、鉄筋コンクリート造の設計を行うことはどんな意味があったのでしょうか?ライト先生直伝の最新工法でありますし、北国に来たばかりの田上先生にとって雪害を克服するには鉄筋コンクリート造が一番の解決策と思われただろうことも想像できます。鉄骨でフライングビームを現したままにすることなども、低コストで素直な方法と考えられたかもしれません。そして、この3年前にオーギュストペレがランシーの教会堂を鉄筋コンクリートで造ったという大ニュースも、強い動機となったと思うのです。

 ですから、北1条教会が鉄筋コンクリート造から木造に変更されてしまったことは、相当なストレスだったに違いありません。予算の問題もあったでしょうし、施工の伊藤豊次さんからダメ出しを食っていたのではないかとも思われます。だとすれば、竣工当時の原型にしてほしいという希望は、竣工時の色に戻してほしいということだけでは足りません。
 つまり、「鉄筋コンクリート造を実現できなかったことが悔しい。だから、最初の設計案での再建築が希望なのだよ。設計変更後の木造は、皆さんにとっては愛着の沸くものかもしれないが私にとっては妥協の産物。それに、私の作品というよりはむしろ小野村牧師の要望を汲んだものであるしね。そんなに苦労して保存しなくてもいいのだよ。」と言っているのではないでしょうか。


 田上先生と「北1条教会を保存する会」メンバーとの間には、お互いに理解しあえない深い溝が横たわっていたのだと思われるのです。
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