珍建築

2014

次の4作品を年代の古い順に並べなさい

2014.03.11

①丹下健三さん設計 広島ピースセンターの慰霊碑
②太田実さん設計 登別温泉科学館

「太田実建築作品集 新建築社 1989年」より

③北海道大学病院 ボイラー室

「新しい札幌の建築作品集 1947-1954 札幌建築士会 1954年」より

④江別市郷土資料館文化財整理室 倉庫
 太田実さんは、1948(S23)年に北海道大学の建築学科創設時に助教授として赴任される前、東京大学の建築学科を卒業されるまで丹下健三さんのお手伝いをされていたそうです。ですから恐らく、丹下さんのコルビジェばりの構造表現手法をいやというほど身に染み込まされた状況で北海道へ来られたと思われます。加えて、実現を待つばかりだった丹下デザイン案の数々も、太田さんの記憶に深く残っていたのではないでしょうか。

 そのように考えると、①と②の関係が偶然ではないという推測が確信に変わってきます。

①1955(S30)年 丹下健三さん実質的デビュー作である広島ピースセンターの慰霊碑
②1957(S32)年 慰霊碑の2年後、師である丹下さんによるコンクリートアーチを拝借し、コル先生のサヴォア邸と混ぜ合わせたようなデザインで登別温泉科学館が生まれた。


 しかし問題となるのは、③1954(S29)年の北海道大学病院のボイラー室です。
 何と広島ピースセンター慰霊碑と類似のデザインで、その前年に完成させているではないですか。太田さんは、赴任当時から北大営繕課長落藤藤吉さんの下で北大施設の設計をいくつか担当されていますから、きっとこのボイラー室も太田さんの手によるものだと思いたいです。それに、建設途中の写真をわざわざ掲載させた理由には焦りが感じられます。つまり、丹下さんの慰霊碑より先に発表したかったのではないでしょうか。
 北海道大学病院の設計指針は、定石通りに求められたと思います。しかし、病院裏のボイラー室の設計でなら多少突飛なことをやっても誰も文句を言わないでしょう。ですからここで、丹下デザインを「お先に~。」とやってしまったのではないでしょうか。アーチのボイラー室が地面から持ち上げられている様子を見ると、登別温泉科学館のための習作ではないかとも見えてきます。

 この謎を太田先生の教え子でもいらした北海道大学建築工学科教授の上田陽三先生にお伺いしましたら、「ウ~ン、そうだったかも知れないなァ・・・。」と、ニコニコしてお話しして下さったことがありました。

 以上を踏まえて私の想像で年代の古い順に並べてみますと、

1位 1954年 ③北海道大学ボイラー室
2位 1955年 ①広島ピースセンター慰霊碑
3位 1957年 ②登別温泉科学館

 ということになり、太田さんが丹下さんよりも早くコンクリートアーチのデザインをこの世に生み出したという事件が明らかとなります。しかも、ピロティで持ち上がっているボイラー室が一番最初であるという点に注目すれば、丹下さんよりもモダニズム度ポイントが高いと思います。しかし、くびれの無い寸胴スタイルの外観はポイントダウンで、相殺勘定となってしまうのが残念であります。

 ところで、④江別市郷土資料館文化財整理室倉庫が一番最初に来る様な事になれば、勝手な推理をリセットして始めから想像をやり直ししなければなりません。
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