ホッケン研 訪問取材

第10回

牧内組のこと

牧内社長と田上先生  牧内勝哉様より 

 田上先生と向かい合って微笑む男性の写った写真が届きました。メールの送り主は、牧内勝哉さんという方で、このウェブの「田上義也作品アーカイブス」の中にお父様が経営されていた牧内組という会社の名前を見つけて、連絡を下さったのでした。

 写真の男性は、かつて札幌にあった建設会社 牧内組の牧内社長で、1984年に完成した「さけ科学館」の地鎮祭の一コマの様子でした。牧内組といえば、1960年代以降に田上先生の作品のいくつかを手掛けられた建設会社ということくらいしか知らなかった私は、ぜひお話をお伺いさせていただきたいと牧内勝哉さんに申し出たのです。

牧内邦夫さん 私 牧内勝哉さん 小野氏

 小野氏と2人でお伺いすると、牧内勝哉さんと兄弟の牧内邦夫さんも待っていて下さいました。書棚から出してきてくれた新品同様ツヤッツヤの田上義也建築作品抄を恐る恐るめくりながら思い出話が始まりました。

 もともとは牧内社長のお父様が牧内木材という会社を経営されていたとのことです。昭和5年に生まれた牧内社長は、旧制札幌一中(札幌南高)に入学するも、戦争に翻弄され肺結核にかかってしまい、進学をあきらめて療養生活を送らなければならないという辛い青春期だったそうです。その後、病気から快復した牧内社長は、お父様から事業を引き継がれたとのことでした。

 牧内社長は大工上がりではありませんでした。ですから、腕の良い棟梁を東北地方から連れてきて、会社に住み込みにさせたそうです。その弟子たちは棟梁が一緒に連れてきたり、地元で見つけて育てられました。いつの間にか大工が30人ほどの大所帯になっていたそうです。食事の用意は奥様がされていましたが、それはそれは大変なことだったそうです。年末年始の麻雀大会の騒音、血の気の多い大工さんの思い出など、昭和のモノクロ映画のような風景が思い浮かんでくるお話でした。

 さて私の質問は、田上先生が牧内社長をビジネスパートナーに選んだ決め手はどんなところ?ということでした。上掲の田上先生と牧内社長が写った写真を見ますと、30歳ほども年齢が離れているにも関わらず、お互いに信頼しきっている様子が見てとれます。当時、カナヅチを持たず経営に徹した建築屋の社長がどのくらいいたかわかりませんが、大工兼社長のような人では、事務所内で真剣に図面をはさんで対峙する打ち合わせはできなかったでしょう。旧制札幌一中で学ばれた牧内社長の学識の高さに田上先生は安心されたかもしれないし、牧内社長は田上先生の他に前田建築研究所の設計する凝った住宅も多く手掛けられていましたから、設計の意図を汲みとる力量も持っておられたと推察できるのです。


 1965年のこと、牧内社長は34歳という若さで田上先生の坂本直行邸新築工事を手掛けられました。

坂本直行邸 2020年夏

坂本直行邸 竣工時 北国のすまい6より 

 この家は山小屋風の三角屋根住宅ですが、高床式に持ち上げられているのが最大の特徴です。家を支える基礎は鉄筋コンクリートですが、その形状は箱型ではなく、人が手を広げたくらいの巾の壁であちこちに配置されています。こうすることで地面からの湿気や雪から木材の痛みを防ぎつつ通気性も確保し、同時に見た目の軽さも演出されているようです。こんな面倒な形状の基礎を打設するにあたり、牧内社長は苦労したに違いありません。苦労というのは打設の方法もさることながら、嫌がる基礎打ち職人をなだめ説得する方法のことです。恐らく牧内社長は職人たちを操る能力に長けていたと思われ、そこが設計者からの信頼獲得につながったと思われるのです。さらにもう一点、牧内社長は先代の残した財産を背景に採算をあまり追い求めない性格だったそうです。こうしたことは、設計者との対立を引き起こさなかったことでしょう。この仕事の後、牧内社長は田上先生の設計する住宅をいくつも引き受けることになったのです。

 ところで、坂本直行邸を引き渡してすぐ、牧内社長は自宅の建築に取りかかったそうです。息子さんたちの記憶によれば、坂本邸の工事で余った材料を使ったようだとのことです。

坂本直行邸の大谷石とポーチに貼られた床タイル 北国のすまい6より 

 坂本直行邸で印象的に使われた玄関横の大谷石を別の現場で余った石と一緒に自宅の玄関横に貼ってみたそうです。そして坂本邸玄関へ踏込むポーチ床に使ったタイル、これは自宅の玄関土間に貼ってみたようです。市松模様の貼り方も拝借しています。

牧内社長宅の玄関と土間

このようなエピソードを伺えるのも、訪問取材の醍醐味です。
Top