ホッケン研 訪問取材

第13回

本郷新アトリエ (現 本郷新記念札幌彫刻美術館)

上遠野 徹

1977(S52)年11月

三上建設

札幌市中央区宮の森4条12丁目
 この建物は、上遠野先生によって設計された札幌出身の彫刻家 本郷新さんのための住宅兼アトリエです。重みあるレンガ仕上げの壁面とそれに対比させた繊細な3段連続の屋根のある外観が最大の特徴です。さらに、浮かばせた部屋のピロティ空間にガラス張りの玄関を置いたところや空間を雁行配置して導線をドラマチックに展開させた手法など、ここまでは上遠野先生らしさがあらわれています。しかしこれら以外の点については、いつものデザインとは何かが違うような気がしていました。そして、どう見たら良いかわからない難解さが、私を遠ざけるかのようでした。

レンガ仕上げの壁面と3段連続の薄い屋根

玄関周りのピロティ

雁行する3つの空間

 ところで数年前のこと、上遠野徹先生の書斎を拝見する機会がありました。2009年に亡くなられた後もそのままだという部屋に入り、やはり書棚を確認せずにはいられない私でした。先生が学生時代に読んでいたという戦前の建築本や、戦後建築史を俯瞰できる書籍の中で目についたのが、村野藤吾さんと白井晟一さんの充実した書籍群でした。建築家の書斎には定番といえるものではありますが、上遠野先生の作風とは違うお二人の姿勢から何か特別なインスピレーションを受けられていたのか、異なる作風ゆえに惹きつけられるものがあったのか、興味深い点でありました。続いて書棚に収まっていた数冊の写真アルバムを開いてみますと、上遠野先生が白井晟一さん設計の尻別山寮(1972年)へ訪れた時の記録写真(1974年頃)がたくさん残っていました。そこに写っていた山寮は中世ヨーロッパ的な雰囲気に支配されていて、上遠野先生がどうしてこんなに熱心に見学記録を残されたのか不思議でした。と同時に、この空気感は本郷新アトリエで感じるものに似ているぞと気がつきました。本郷新アトリエと尻別山寮に共通する何かを紐解いてみたら、ひょっとすると本郷新アトリエの正体をあぶり出すことができるかもしれない、写真アルバムを閉じながらそんなことを考えたのでした。

尻別山寮 1972年 白井晟一さん設計

尻別山寮 1972年 白井晟一さん設計

 本郷新アトリエをしっかりと鑑賞してみたいと気持ちが変化してきたところで、偶然にも開催されるという「建築家 上遠野徹と本郷新の宮の森のアトリエ展」の展示準備に関わらせて頂き、思いがけず真正面から向き合うこととなりました。その準備中、上遠野建築事務所の所員でもあった建築家の圓山彬雄先生や建築史家の角幸博先生、そして本郷新アトリエ(現 本郷新記念札幌彫刻美術館)の吉崎元章館長のお話をお伺いし、またホッケン研の皆とも想像を巡らせたことで、この建築の見どころが徐々に整理されていきました。そして、私個人の感想としては、上遠野先生のデザインの中に白井晟一さん風のデザインが混ざり込んで複雑な味わいを生んでいるのではないかという思いがますます強くなってきました。それらを一つ一つ拾い上げて白井晟一さん設計の尻別山寮の中に探してみると、やはりピタリピタリと合致していったのです。それでは、それらの共通点を順番に見ていきたいと思います。

アーチの開口部

アーチ型の庇 ギャラリーにある緩いアーチ梁

 まず1つ目に、アーチの開口部を挙げたいと思います。外部搬入口にかかるアーチの庇や1Fギャラリーにある大梁をアーチ状に装飾したところです。初期の設計図(1976年秋)では、なんと扉や開口部のほとんどがアーチ状とされていました。釧路の大滝邸(1971年)にもピロティにアーチの開口部が1か所ありましたが、本郷新アトリエで再びアーチが登場したのです。アーチの開口部は尻別山寮にも採用されていて強く印象に残っていました。1970年代の建築によく見る意匠で流行にもなっていたようですが、中世の古城からデザインを拝借したかのような態度に俗っぽさを感じるものが多いと思います。本郷新アトリエでは注意深く採用箇所を絞り込んだようでした。

初期の設計図には多くのアーチの開口があった本郷新記念札幌彫刻美術館 所蔵

尻別山寮にあるアーチ開口と後述する共通要素のブリッジ・黒い鉄製手摺・小梁

ブリッジのある吹き抜け空間と黒い鉄製手摺

本郷新アトリエのブリッジ

 上遠野先生の空間構成といえば、部屋の奥に部屋、さらにその奥に部屋という具合に広がる平面が大きな特徴です。本郷新アトリエでは吹き抜け空間の中にブリッジを掛け、立体的に空間を作っています。もちろんギャラリーの彫刻作品をあらゆる角度から味わうための仕掛けであり、尻別山寮と共通しているという指摘は当てはまらないかもしれませんが、上遠野先生としては初めてのダイナミック空間となっています。
 また、初期の設計図には注目すべき文言が書いてありました。「~壁も白、黒い手スリが美しく引き立つ」という鉛筆の説明書きです。ははん、ギャラリーにある白い手摺は元々は黒くて細い鉄製手摺で計画されていたのか。現在の白い手摺のデザインは上遠野先生らしからぬものであったけれど、ギャラリーの安全確保のため途中でデザインが変更され現在の頑丈な形に落ち着いたのかもしれないと推測することができました。そしてやはり、尻別山寮の手摺も白い壁を背景にした黒い鉄製の手摺であったのです。

鉛筆の説明書き本郷新記念札幌彫刻美術館 所蔵

縦長の窓や斜めに配置されたコーナー窓

斜めに配置されたコーナー窓

 吹抜け空間のアトリエには、天井から床まで続く縦長の連続窓や、建物角を削り落としたかのように斜めに配置されたコーナー窓があります。それまでの上遠野先生の作品に登場したことのないデザインです。本郷新アトリエでは、尻別山寮のように単に縦長に配置するのではなく、上部の窓よりも下部の窓を僅かに絞りつつ奥にも引っ込めて立体感を出しています。また、窓間の壁巾を等しく連続させようとする狙いがコーナー窓によって実現されているようです。一見シンプルに見えるアトリエ部分の外観にこのような計算が隠されていることは、上遠野先生らしい緻密さと言えるかもしれません。

尻別山寮にもあるコーナー窓

陰影深い梁の存在

天井に連続する梁

 上遠野先生の作品にここまで梁を現わしている建築はありません。梁が天井を支えていることは当然ですが、支えていない飾りの小梁もあちこちに存在しています。飾りの狙いは空間に陰影や重厚さを演出させるためと思われますが、モダニスト上遠野先生が構造上無意味な梁を飾ることはないはずです。これが借り物のデザインであることに間違いはなく、もちろん尻別山寮の天井にも連続梁が掛かっているのでした。

レンガと白壁のバランス

建物それぞれの面でレンガ壁と白壁の扱いが反対となっている尻別山寮

 上遠野先生といえば、自邸を筆頭にレンガを使用したいくつもの作品を思い浮かべることができます。本郷新アトリエではレンガ壁と白い壁の組み合わせで外観を構成し、噛み合ったボリュームを区分けして立体感を強調しています。同年の桑園教会と通じるものを感じます。また、軒に至る手前でレンガを止め、薄い屋根先に注意が集まるようにも計算しています。本郷新アトリエと尻別山寮は、レンガと白い壁を組み合わせているという共通性はありますが、尻別山寮ではレンガ壁と白い壁との関係を南面と北面でネガポジの関係となるよう演出的に使っています。2つの建物の間にはその扱い方に大きな違いがありました。

井形の断面にされた2本の柱

2本の柱と断面検討の変遷スケッチ本郷新記念札幌彫刻美術館 所蔵

 玄関の上で浮かんでいる2階の部屋は2本のコンクリート柱によって支えられています。上遠野先生の柱といえばまず鉄骨柱が思い浮かぶことや、鉄筋コンクリート造なら大滝邸や田島邸のように短冊形状の壁で上階を支えることが多いことを考えますと、珍しいデザインといえます。その柱は初期の設計図には円柱で描かれていて、途中で六角形を検討しつつ最終的には井形となりました。井形にしたことで陰影が生まれはしましたが、野太さは消えていません。恐らく繊細さを求めたのではなく、彫刻家本郷新の性格を写したデザインなのだろうと思われます。ちなみに尻別山寮には、十二角形の印象的な太い柱が立っていました。

尻別山寮にある十二角形の柱 前述したアーチ開口・ブリッジ・黒い鉄製手摺・小梁も見えます

これらの共通点から見えてくるもの

 2つの建築に感じる共通点、というよりもむしろ尻別山寮からの引用とも見える設計は、なぜ行われたのでしょうか?本郷新という具象彫刻家のアトリエとギャラリーのためには、それまでの上遠野先生の建築デザインでは平坦すぎて空間が弱いと懸念されたかもしれません。そこで白井晟一風の重厚な空間力で彫刻群と対抗させようとしたのではないでしょうか。その力を得るためにいくつかの要素を引用されたのではないかと考えられるのです。それにしても、少し安易ともいえそうな引用を上遠野先生は良しとしたのでしょうか。

本郷新アトリエ(現 本郷新記念札幌彫刻美術館)の空間を味わう圓山先生と角先生

 上遠野建築事務所の所員だった建築家の圓山彬雄先生と建築史家で上遠野先生と親交の深かった角幸博先生はお二人とも、アーチの開口デザインは上遠野さんの意向ではないだろうと言われました。さらに圓山先生は、大滝邸にあるアーチ開口は大滝さんのご要望だったという記憶をお話ししてくれました。また、元上遠野建築事務所所員だったホッケン研メンバー橋村明氏によると「黒い手摺が背景の白い壁から美しく引き立つ。」という手摺のデザインについて言及した筆跡は上遠野先生のものではないと断言されました。もしやと思い本郷新さんが書いた手紙の筆跡を比べてみれば、果たして本郷新さんの筆跡と一致したのです。加えて、柱断面の検討をしたスケッチも本郷新さんのものだとわかりました。

 恐らく本郷新さんは見たのでしょう。上遠野先生が白井晟一さん設計の尻別山寮を訪れた時の記録写真アルバムを。上遠野先生は参考程度に披露したのかもしれませんが、本郷新さんは尻別山寮に惹き込まれてしまったのではないかと思うのです。そしてこの山寮の雰囲気を自宅兼アトリエに再現したいと要望された、そのような気がするのです。つまり、これまで見てきた本郷新アトリエにある異色な点の数々は、本郷新さんによる尻別山寮からの引用リクエストだったと考えればその謎が氷解するように思われるのです。上遠野先生は、自分のデザインと織り交ぜながら何とか上手にまとめられると考えられたのではないでしょうか。それが3段連続の屋根や雁行配置の空間に表れていると思います。いわばハード部分は上遠野徹、ソフト部分は白井晟一風にという作戦です。展覧会で展示された設計図の遍歴から、上遠野先生と本郷新さんとの幾重にも及ぶ打合せが見えてきました。ようやく辿り着いた最終図面に、お二人の達成感が見えるようでした。ところが本郷新さん、ここに至ったところで大事なことに気がついたようです。螺旋階段の要望を伝えていなかったことにです。

螺旋階段のある山荘風のアトリエ案 設計者不明本郷新記念札幌彫刻美術館 所蔵

 1965年のこと、本郷新さんは春香山に最初のアトリエを建てました。設計者は田上先生で、玄関から中に入ると造形的な螺旋階段がお出迎えしてくれる仕掛けがされていました。本郷新さんはその螺旋階段を気に入っていたのでしょう。新しいアトリエを計画するにあたり最初は別の設計者へ依頼をされていたようで、春香山のアトリエに通じる山荘風のデザインには、本郷新さんの要望が感じられました。そしてそこには、きちんと螺旋階段が描かれていました。これをボツとして上遠野先生に設計者を変更した理由は現在もわかりません。ともかく、上遠野先生と2人で新しいアトリエを考えている間、本郷新さんは螺旋階段のことをすっかり忘れていたようなのです。

 最終図面の段階で螺旋階段を要望されても、もう既にそれを入れ込む空間は残っていません。であれば、アトリエからプライヴェート空間へ向かう階段に手を加えるしかありません。図面を手直しして、階段周りを変更している上遠野先生の困った顔が浮かんできます。当初とは階段入口の向きをひっくり返して、ぐるりぐるりと導線をねじった階段を捻り出して螺旋風とし、何とか本郷新さんの了解を得た上遠野先生。その不合理で混沌めいた階段の存在が、この本郷新アトリエの最大の謎でした。その理由が本郷新さんによる土壇場での螺旋階段リクエストにあったと想像すれば、この謎が解決できそうです。こうして長く緩くならざるを得なくなった階段は、結果として蹴上寸法の小さい、且つアトリエから見える部分だけは鑑賞対象となるデザインになったと思われます。

左 階段変更前 右 階段変更後本郷新記念札幌彫刻美術館 所蔵

うねる階段 

本郷新さんからデザインの了解を受けるために描いたと思われる階段のスケッチ本郷新記念札幌彫刻美術館 所蔵

 本郷新アトリエは、これまで見てきたように上遠野先生と本郷新さんの濃密な応答作業を繰り返して形づくられたといえるのではないでしょうか。濃密になればなるほどデザインは複雑化していき、素直に見ることのできない難解さとして迫ってきたと思われます。本郷新さんは、あらかじめ自分で平面図や外観図を描き、要望をかなり具体的にまとめることのできる方だったようです。設計者にとっては施主の要望が具体的であるほど、自由な発想に制限がかかるものではないでしょうか。そのような難しい施主に立ちまわりつつ、自身の妥協も許さなかった上遠野先生。数々の要望を受け入れつつデザインが破綻しないように努力したからこそ難解さが現れたと見ることもできますし、逆に破綻しないように持ち堪えた上遠野先生のデザイン力が現れていると見ることもできそうです。
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