ホッケン研 訪問取材

第1回

春香山の本郷新アトリエ

2010年10月30日10:00~13:00 快晴

田上建築製作事務所 田上義也

1965(S40)年

中村組

小樽市春香町
 田上義也先生設計の「春香山の本郷新アトリエ」。何とか現物の姿を見てみたいと思い、春香山の山裾に広がる春香町を隈なく捜しまわったことがありました。しかし、どうしても見つけることができないので、もう存在していないのだと諦めました。それでも諦めきれない気持ちが募りに募ったある日のこと、あらためて古い住宅地図を眺めていましたら、春香山の麓に細い山道があるのを見つけました。そのうねる山道を指で辿っていくと、一番奥のどん詰まりに名無しの住宅が載っているではないですか。私はこの家がホシに違いないと確信し、家族が寝静まる深夜に危うく大声を上げそうになりました。

 果たして翌日、念願の「春香山の本郷新アトリエ」へやっとたどり着くことができました。田上先生の戦後作品は、戦前の作品に比べて注目されることが少ないのですが、実は魅力あふれる作品が多いです。ホッケン研の皆にこれを報告し、満場一致で記念すべきホッケン研の取材訪問第1号に決定いたしました。

 現在、この建物付近の敷地を使用しているWさんから承諾を頂き、ご案内までして頂きました。Wさんの先導で山道を登り「さあ着きましたよ。」という声に顔を上げますと、突然現れたダイナミックな姿に我々は立ちすくんでしまったのでした。
 玄関からホールに進むと、らせん階段がお出迎えしてくれました。そのボリューム感と優美さに、既成階段を見慣れた目から涙が溢れそうになりました。田上先生が1936(S11)年に設計した網走市立郷土博物館で、1931(S6)年のコルビジェ設計によるサヴォア邸のらせん階段を拝借した後、いくつかの作品に採り入れてきたうちの1つです。思わず、撫で愛でてしまいました。続いて奥のアトリエに入りますと、北海道インテリア研究所の山本信先生の手によるという暖炉が、竣工写真のままの姿で現れました。

竣工時 1965年 北のまれびと 現代出版社 より

現在 2010年

 田上先生、1960(S35)年に設計した宮ヶ丘ユースホステルの暖炉で失敗し、完成したばっかりのユース内部をすすで真っ黒にしてしまったことがあると聞いたことがあります。ですから、本郷新さんから暖炉のリクエストをされた際、正直に別の協力者が必要だと話をしたそうです。そこで当時、池内の家具売り場で働いていた山本信先生の所へ、田上先生、本郷新さんお二人揃って相談に行ったということです。でも、この暖炉も不自然にきれいな姿で残っています。ひょっとすると、これもうまくいかなかったのではないでしょうか。

らせん階段を登りきって振り返ったところ

 らせん階段を登りますと2階にたったひとつの部屋である寝室へたどりつくのですが、その手前ホールの壁裏は屋根裏の大きなデッドスペースになっています。当時のモダニズムの考えからすれば、このようなデッドスペースも空間に活かすよう隅々まで設計を尽くすのでしょうが、あえて壁裏に隠した意図を感じます。こうすることで、狭い2階ホールから寝室に至った瞬間に展開する大自然の眺望が、よりインパクトをもって演出されるという仕掛けなのだろうと思います。

 さて、本郷新アトリエの外観は、空へ向かって飛翔するような形に見えます。片流れの屋根は対角線方向に下っていきますが、その途中の両端部は垂直に下ろされています。この様子がヒトの顔、私にはどうしてもリーゼントの髪形をした男性の顔に見えてしまうのですが、何か特別な理由があるのではないかと思っていたところ、ひとつの昔話に出会いました。2015年に本郷新記念札幌彫刻美術館で開催された「田上義也と札幌彫刻美術館」展のリーフレットに下記の写真が掲載されていたのです。

田上義也建築作品抄 らいらっく書房1966年 より

本郷新 「少女像」 1930年

 1930(S5)年に開催されたという本郷新作品展覧会。ほとんどの来場客がさらっと見ている中、この少女像の前後左右をぐるぐると見て回っている田上先生に感心し、本郷新さんはこの少女像を田上先生に贈ったのだそうです。

 という昔話を聞きますと、本郷新アトリエの外観はリーゼントをした男の顔ではなく、この少女像と関係があるような気がしてきます。垂直に下ろされた屋根が、耳を隠した少女のおかっぱ頭のように見えてきます。つまり田上先生は、本郷新さんから贈られた少女像のお返しに少女像を建築に再構築したのではないか。このような想像が、私の頭の中で渦巻いて仕方ないのです。


 さて、1965(S40)年に完成したこのアトリエ。今はすぐ裏を1972(S47)年の札幌オリンピックのために建設された札樽自動車通が走っています。この土地を選んだ本郷新さん、きっとアトリエ竣工後に始まった高速道路の建設にがっかりしたでしょう。ススキノから飲んで帰ってくるのが遠いのはわかっていたが、車の騒音で創作活動が集中してできやしないではないか!と。

 ところが、すぐ後ろに架かる高速道路の橋には、1964年建設との札が付いていました。
 なんだ、本郷新さん、最初から高速道路のことは承知されていたのですね。道路建設より先に架道橋ができているとは何とも謎な話ですけども。
 
 それにしてもこのアトリエ、かなりの御老体です。2018年にもう一度来てみたら、さらに痛みが進んでいました。今年の冬をとても乗り越えられそうにはありません。

2018年撮影

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