ホッケン研 訪問取材

第8回

南条山荘

2017年05月21日13:00~15:00  晴れ

田上建築制作事務所 田上義也

1962(S37)年

ブロック造・木造2階建 277㎡

中島組

日高郡新ひだか町

小野尚斗
 「田上義也建築作品抄’64住宅編」にて紹介されている南条山荘。
 常々、田上作品が掲載されている本を見る度に、実物を見たい!という欲求に駆られるが、この南条山荘もその1つである。南条さんの山荘(別荘?)、建設地が日高という少ない情報と掲載されている写真の背景の山並みをヒントに、まだ現存しているのではないかという直感を基に昨年の秋に探し始めたのが始まりである。調査が進むにつれ、南条さんは現 室蘭市出身であり、建設大臣・農林大臣を歴任された故 南条徳男氏だと判明した。建設地は静内ではないかとヤマを張り、夜な夜なGoogleマップのストリートビューでドライブ調査する日々を過ごす。

 そんな中、山下会長から1通のメールが届く。

故 高倉健氏主演の映画「君よ憤怒の河を渉れ」角川書店DVD

 南面外観 同劇中キャプチャー画像より

北面(玄関側) 同劇中キャプチャー画像より

 そこに記載されていたのは、南条徳男氏と三石のH牧場との関係。そして添付されていたのは、故 高倉健氏主演の映画「君よ憤怒の河を渉れ」のキャプチャー画像と南条山荘の玄関の画像。ぶぅわぁぁっと鳥肌がたち、すぐさまGoogleマップの衛星写真でH牧場を確認。そこには特徴的な南条山荘の屋根の形が屋根伏図のように写っていた。

 11月上旬、現地確認及び突撃アポを実行する為、三石に向かう。国道235号線を三石市街地へ左折し、現地へと向かう。2015年時点でのGoogleマップには写っていたが、現存するかは正直不安であった。道なりに進み、緩やかなカーブを曲がった時、ついに「南条山荘」が姿を現した。「あった!」ではなく、「いた!そこにいたんですね!」と思ってしまう程の存在感であった。

 突撃アポにもご丁寧に対応して下さった現オーナーのN様。来年の初夏の頃に取材のお約束をさせていただく。

1962年の竣工写真 N様所蔵

 年が明け5月中旬、天気は晴れ。ホッケン研メンバーと共に「南条山荘」へと向かう。今回は顧問の角名誉教授にもご同行いただく。角教授所蔵の竣工写真、内部和室写真、当時の田上先生直筆の仕上表など、貴重な資料をご持参いただく。

 現地に到着し、まずはダイナミックな外観に圧倒される。ファサード(※三角部分をそう呼ばせていただく)は同じく田上先生が設計された北湯沢ユースホステルと非常に似ており、いわゆる“低く地をはう両翼とエネルギッシュに空に向かう”デザインである。N様曰く、「南条先生がどこかのユースホステルと同じようにして欲しいとリクエストされたらしいですよ。」と。確かに南条山荘と北湯沢ユースホステルは同じ1962年の作品であり、南条氏は1959年から1965年まで日本ユースホステル協会会長を務めていたらしく、そういった背景で合点がいく。妻部分には、換気口兼用妻飾り。竣工写真と見比べるとデザインが変わっている。交換改修されたようだ。

竣工時 1962年 (時期不明だが、はね出した屋根下ピロティは後に増築されて部屋となった。) 「田上義也建築作品抄’64」1964年住宅サロン社 より

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現在 2017年 (屋根は赤から緑へ塗り替えられた。) グレイトーンフォトグラフス 酒井広司

竣工時 1962年 「田上義也建築作品抄’64」1964年住宅サロン社 より

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現在 2017年 グレイトーンフォトグラフス 酒井広司

竣工時 1962年 「田上義也建築作品抄’64」1964年住宅サロン社 より

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現在 2017年グレイトーンフォトグラフス 酒井広司氏

 突撃アポ時には、建物内部はN様の親御さんが亡くなられてからは使用していない為、とても見せられる状況ではないとやんわりお断りされていたが、今回お伺いした際、N様のご厚意により特別に拝見できることに。

 内開きの木製玄関ドアを開き中に入ると、玄関タイルは鉄平石の乱張り仕上げ。同年代の作品の植田邸も内開きの玄関ドアに鉄平石の乱張り仕上げとなっている。当時の田上先生のスタンダードだったのではと推測できる。玄関上部の吹抜けを利用し階段を設置しており、蹴込み板をなくし、ささら桁というべきなのか表現が難しい納めとしている。強度上の問題からなのか、1部側桁はH鋼となっており、見た目を合わせる為に木材をはめ込んでいた。手摺子はスチール角パイプ仕上げとなっている。空間に圧迫感を与えないよう考えられたのではないかと勝手に感じる。実際に上ってみると蹴上寸法と厚さ30~40mmはあるであろう無垢材の踏み板の影響で優しい印象を受ける。

 その流れでズルズルとリビングにもお邪魔させていただく。作品集にも掲載されているファサードの三角部分に続くリビング。天井には梁型を利用した埋め込み照明が設置されているのが印象的である。

 またまた流れでズルズル、ゾロゾロと建物内部にお邪魔させていただく。角教授所蔵の竣工当時の和室写真と現在との比較の為である。和室に入った瞬間に目に飛び込んできたのは、杉の板目が目透かし張りされた勾配天井である。屋根勾配なりに勾配天井となっていると思いきや、屋根勾配とは直交方向に勾配天井となっている。南北に2間続きの和室は襖で仕切られているが、欄間部分は厚さ1~2mmの透明ガラスのみで仕切られていた。上記の納まりは外観の“低く地をはう両翼”のバランスを保持する為に軒桁の高さを抑えつつ、南北サッシからの採光を北側の和室に少しでも取り入れる為に工夫されたのではないかと私なりに勝手に考える。それにしてもどのような小屋組みになっているのか非常に気になるところである。天井板が竿縁納まりではなく、目透かし納まりになっているが、床挿し云々に関しては気にしない事にした。

 今回、建物内部の拝見をさせていただけた部分だけでも、「田上義也建築作品抄’64住宅編」に掲載されている平面図とは異なる間取りの箇所があった。この箇所に関して、角教授曰く「田上先生の作りたい間取りとお客様の望む間取りが一致せず、最終的にお客様の間取りになる場合があったが、作品集として載せるのは先生が造りたかった間取りを載せているケースがある。」と。恐らく、今回も1部そのケースが採用されたのではと推測される。

 田上先生の仕上げ表ではブロック造となっているが、木造の印象を受ける。どの部分がブロック造なのか、外に出て細部を調査させていただく。「みなさん色んな細かい部分を見られるんですね。」とN様、「変態ですから。」とホッケン研会員。ファサードの外壁の1部がストーブの排気筒用なのかコア抜きされている部分を発見する。そこを確認すると確かにブロック造となっていることを確認できた。恐らく、ファサード部分はブロック造とし、その他の平屋部分は木造としたのではないかと推測される。

現在の南面 グレイトーンフォトグラフス 酒井広司

現在の北面 やはり玄関廻りは大谷石貼り グレイトーンフォトグラフス 酒井広司

 N様からは様々なお話をお伺いすることができた。
 「掃除が大変で・・・。」と玄関の鉄平石。
 「この前も1枚落ちてきたのよね・・・。」と煙突の鉄平石。
 そんな鉄平石はなんとリビングの暖炉の天板にも採用されていた。映画の暖炉とは位置も形状も異なっていた。N様曰く、内部の映画撮影は行っておらず、撮影は外部でのみだったとの事。確かに暖炉だけでなく、玄関廻りと部屋内部も実際と映画とは異なっている。内部の撮影に関しては、役者のスケジュールの関係からスタジオ撮影となったのだろう。大道具担当が精巧に再現したが、細部に関しては映画に合うように少しアレンジしたのではと考える。この映画「君よ憤怒の河を渉れ」は1976年に公開された映画であるが、実は日本より中国でのほうが知名度は高い。毛沢東の文化大革命後の1979年に外国映画としては初めて上映されたという事もさることながら、映画の内容が文化大革命に対する中国人の様々な想いと、ストーリーとがリンクされて共感を持ち大ヒットに繋がったらしい。中国人には有名な観光スポットとなっているとの事だ。現にN様も観光客は圧倒的に中国人が多いとおっしゃっていた。映画自体は高倉健の渋さはもとより原田芳雄がカッコいい。ストーリーに関してはコメントを控えたいが、新宿の街中を馬が走るという斬新な演出と熊のぬいぐるみ感には驚かされた。また、このシーンでそのBGMなのかという戸惑いが随所にみられ、70年代の映画を観る機会があまりない私にとってあっという間の2時間半であった。

 この「南条山荘」は映画の舞台となる前から地元では有名な建物だったと推測される。その裏付けとなるエピソードをN様よりお伺いすることができた。もともと三石地区は福井県の現 大野市から入植された方が多いという縁で、その大野市に縁のある当時の現職大臣 福田一氏が来町される事になった。ところが当時の三石地区周辺には大臣をおもてなしする施設がなく、そこで選ばれたのが「南条山荘」だったそうだ。役場の方が来て、掃除やら食事の用意やらをしていただいた事を今でも覚えているとの事だ。元々南条先生の別荘だったという背景は多少あったのかもしれないが、町でも有名で素敵な建物だったから抜擢されたのだと思う。

 前述したように親御さんが亡くなられてから建物の大部分は使用しなくなっているとの事で、今後の「南条山荘」の行く末が気になるところではあるが、どんな用途になろうとも変わらないのは、この「南条山荘」に対する田上先生の考え・想いである。

 角教授所蔵の資料の中に、この「南条山荘」を建築するにあたっての田上先生の考えが表れている文章があったので紹介したい。

“日高に山荘を建てたいのだが設計して欲しい。そこは私たちの経営している牧場だから、よく環境をみて、そこに相応しいたのしい家をたてヽくれと南條※1さんから依頼されました。
一方は山に、一方は海につらなり、さらに一方はえんえんと最大限の鈍角を打ちひろげた日高平原でした。そこで僕はこんな家を作りました。
ブロック構造体に、屋根を加えて坦々たる平原の○○※2を衝動せしめ、鋭い風雪を切断したり、四季に、とりわけ夏の平原にチャイナロックの名馬のいななきに耳をかしげるような家のつもりでした”

チャイナロックのブロンズ像 小野尚斗

小野尚斗

 初夏の昼下がり、ファサードのサンルームにて心地よい風を浴びながら読書する。うたた寝していると馬の鳴き声で目を覚まし、紅茶を一口。そんな光景を容易に想像できてしまう、そんな素晴らしい作品であった。

※1 原文のママ
※2 解読できない為、○○と表記。恐らく静寂などの動きのないさまを伝えたいと思われる。

左から 登尾・小野・角教授・橋村・荒井・酒井・山下 (照井欠席!)で記念撮影。

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