現在の北面 やはり玄関廻りは大谷石貼り グレイトーンフォトグラフス 酒井広司
N様からは様々なお話をお伺いすることができた。
「掃除が大変で・・・。」と玄関の鉄平石。
「この前も1枚落ちてきたのよね・・・。」と煙突の鉄平石。
そんな鉄平石はなんとリビングの暖炉の天板にも採用されていた。映画の暖炉とは位置も形状も異なっていた。N様曰く、内部の映画撮影は行っておらず、撮影は外部でのみだったとの事。確かに暖炉だけでなく、玄関廻りと部屋内部も実際と映画とは異なっている。内部の撮影に関しては、役者のスケジュールの関係からスタジオ撮影となったのだろう。大道具担当が精巧に再現したが、細部に関しては映画に合うように少しアレンジしたのではと考える。この映画「君よ憤怒の河を渉れ」は1976年に公開された映画であるが、実は日本より中国でのほうが知名度は高い。毛沢東の文化大革命後の1979年に外国映画としては初めて上映されたという事もさることながら、映画の内容が文化大革命に対する中国人の様々な想いと、ストーリーとがリンクされて共感を持ち大ヒットに繋がったらしい。中国人には有名な観光スポットとなっているとの事だ。現にN様も観光客は圧倒的に中国人が多いとおっしゃっていた。映画自体は高倉健の渋さはもとより原田芳雄がカッコいい。ストーリーに関してはコメントを控えたいが、新宿の街中を馬が走るという斬新な演出と熊のぬいぐるみ感には驚かされた。また、このシーンでそのBGMなのかという戸惑いが随所にみられ、70年代の映画を観る機会があまりない私にとってあっという間の2時間半であった。
この「南条山荘」は映画の舞台となる前から地元では有名な建物だったと推測される。その裏付けとなるエピソードをN様よりお伺いすることができた。もともと三石地区は福井県の現 大野市から入植された方が多いという縁で、その大野市に縁のある当時の現職大臣 福田一氏が来町される事になった。ところが当時の三石地区周辺には大臣をおもてなしする施設がなく、そこで選ばれたのが「南条山荘」だったそうだ。役場の方が来て、掃除やら食事の用意やらをしていただいた事を今でも覚えているとの事だ。元々南条先生の別荘だったという背景は多少あったのかもしれないが、町でも有名で素敵な建物だったから抜擢されたのだと思う。
前述したように親御さんが亡くなられてから建物の大部分は使用しなくなっているとの事で、今後の「南条山荘」の行く末が気になるところではあるが、どんな用途になろうとも変わらないのは、この「南条山荘」に対する田上先生の考え・想いである。
角教授所蔵の資料の中に、この「南条山荘」を建築するにあたっての田上先生の考えが表れている文章があったので紹介したい。
“日高に山荘を建てたいのだが設計して欲しい。そこは私たちの経営している牧場だから、よく環境をみて、そこに相応しいたのしい家をたてヽくれと南條※1さんから依頼されました。
一方は山に、一方は海につらなり、さらに一方はえんえんと最大限の鈍角を打ちひろげた日高平原でした。そこで僕はこんな家を作りました。
ブロック構造体に、屋根を加えて坦々たる平原の○○※2を衝動せしめ、鋭い風雪を切断したり、四季に、とりわけ夏の平原にチャイナロックの名馬のいななきに耳をかしげるような家のつもりでした”