ホッケン研 訪問取材

第9回

ホテルアルファサッポロ
(現 ホテルオークラ札幌)

2020年08月15日13:30~17:00

観光企画設計社 上原秀晃

1980(S55)年

SRC造 地下3階地上14階15,725㎡

大林組

札幌市中央区南1条西5丁目
 「ホテルオークラ札幌が来秋閉館」という新聞報道がされました。
 このホテルは、元々ホテルアルファサッポロとして建築家の上原さんが北海道で初めて設計されたものであり、数々の工夫が凝らされたと聞いたことがありました。これは1度、しっかりとお話をお伺いしなければならないと、上原さんの事務所DCBを訪ねたのです。

上原さんより

 事務所へ通されてテーブルに着きますと、真ん中に大きな本が1冊置いてありました。それは「旧帝国ホテルの実證的研究」という明石信道さんが帝国ホテル解体に際して実測、詳細の解明をまとめた名著でした。

上原さんより

 上原さんはホテルアルファサッポロの解体に際して、その実測を我々に?
 そうだ!ホッケン研メンバーの照井さんは建築意匠の歴史を専攻されていたから実測はお手の物のはず。きっと力強く指揮をとってくれるだろうと照井さんをチラと見ました。しかし私は知っています。照井さんの学生時代の記憶から、なぜか実測実習が消えていることを。

 そんな心配をしていると、上原さんがホテルアルファサッポロの設計図を見せながら話をはじめてくれたので、実測の必要はないとホッとしました。
「フランクロイドライトの弟子たちは意匠の面ばかりで、ストラクチャーの面は全くと言ってよいほど受け継いでいないのだよ。」


 学生の時からライトが好きで、まだ解体前の帝国ホテルにも行ってみました。有名なロビー空間は一般的な2階高の中に3層が入っています。低い天井だけれども、広がりを感じられるような工夫がされていて狭さは感じないですね。構造設計に興味のあった私は、この「旧帝国ホテルの実證的研究」で明らかになったライトのストラクチャーテクニックにすっかり参ってしまいました。

 ホテルアルファサッポロは、帝国ホテルから大いに影響を受けて設計したホテルです。
 伸びやかなロビー空間を実現するためにどうしたら良いか、高さ制限のある中で求められた複数の宴会場と客室数をどう実現したら良いかを考え、SRC造でプランすることにしました。ロビーのある低層部は鉄骨の大梁で大空間をつくりながら梁をあえて意匠として見せることで各階の高さを詰めています。ロビーから隣のラウンジを少し下げ、さらに隣のレストランを下げて広がりのある空間をつくり、天井の大梁からバー空間を吊り下げました。極めて天井高の低いバーですがね。(笑)これで伸びやかな空間はできますが、設計よりも難しいのは施主を説得することなんですよ(笑)。

 客室の壁はRC構造壁にしつつ壁上部に小さな鉄骨梁を渡すという組み合わせで客室の階高を2.9m以内に抑え込みました。ここでも梁型を意匠として使うことで、室内の天井高を確保しました。

 外壁については低層棟には打込タイルを使っています。札幌で初めて設計する建物でもあり、凍害の心配をさんざん脅されていたからなのです。後貼りのタイルでは剥落するとね。高層棟についてはタイルを打込んだPC版を使って仕上げました。外壁を全て炻器質仕上げにするなんて高額になっただろう、さすが全国長者番付1位のオーナーならではだと噂されました。実際には噂ほどはかかりませんでしたがね。

 建主は、関兵精麦という仙台の会社だったのですが、担当の関光策さんがこうしたデザインに理解を示してくれる方だったのです。模型を作ってプレゼンテーションをしましたが、1発でOKを頂きました。

上原さんと私撮影 登尾未佳

ホテルアルファサッポロを担当することになったある偶然とは 


 実は、ホテルアルファサッポロの設計は札幌の某大手設計事務所がもう既に終わらせていて建設費も確定していたのです。しかし、センターコアのプランだったため宴会場などの配置に難があったのです。ホテルの運営委託先だったホテルオークラの料飲部長だった橋本さんが関光策さんにその心配を伝えたというんですね。関さんはホテルオークラと縁のあった観光企画設計社の柴田社長に意見を聞こうと突然訪ねて来られたのですが、あいにく社長も建築部長の海鋒さんも不在で設計部長だった私が話をお伺いしたのです。
 本来であれば、関さんと同郷の海鉾部長が担当となるべきところ、最初の窓口になった偶然で私が担当して全館設計変更することになりました。ところが、とにかく時間がない。しかし柴田社長は、ホテルのニーズをインプットすると面積表を出せる仕組みを構築していたので、その点はむしろ観光企画設計社の得意とするところでした。問題は設計変更に伴う予算超過でした。建設を請負った大林組から1億円のオーバー額が提示されたのです。
 関社長から「追加の支払いは無しだ。」と伝えられたので、それまでの交渉経験にも前例の無かった100%圧縮を竹田工事長と1週間かけて実現しました。当時はまだ40歳で若かったし真剣に取組んで1億円を帳消しすることができたのです。このことが関光策さんにとって父である関社長へ、そして、会員制ホテルとして企画をした三越百貨店さんへ顔が立つきっかけとなったようでした。
この世界に入ったきっかけとその後の独立 

 1965年に早稲田大学の理工学部を卒業して観光企画設計社に入社したのですが、教鞭をとられていた吉坂隆正先生から勧められたからなのです。この事務所は早稲田を卒業して坂倉準三事務所へ行き、その後独立、2年前に創業されたばかりの柴田陽三さんが社長をされていました。柴田さんはホテルオークラの社長からこれから先を見据えてホテル専業の設計事務所をやったらどうかと促されたということです。当時の設計業界の感覚としては、ホテルの設計なんて建主から良いように使われるだけだという風潮がありました。しかし吉坂先生のお勧めでしたし、まずは3年間やってみなさいとも言われ、その後はどんどん入ってくるホテルプロジェクトに乗り続けてしまいました。

 ホテルアルファサッポロを完成させた後、関光策さんと私は意気投合してハウジング事業に乗り出しました。ホテル同様に炻器質タイルで外装を仕上げたいと思い、タイル一体型の打込みタイルブロックを開発、そして高品質・高強度のSECコンクリートを使って低層中庭型の分譲マンション アルファコートシリーズを展開し、1988年までに札幌市内に12棟を建て、好評を博しました。

上原さんより  1983年アルファコート伏見Ⅰ 贅沢な中庭

 ハウジング事業と並行して、関光策さんはトマムにリゾート施設の開発を着手しました。私はその頃、日本各地に建ち始めたリゾートマンションが都市型マンションと何ら変わらない点に不満を持っていました。そこで計画したザ・ビレッジアルファでは、上階から入って吹抜けリビングを見下ろせるメゾネットタイプを提案したのです。坪単価や建設費用はいくらまでという根拠のない制限に留まっているよりも、良いものをつくれば売れるということがよくわかりました。

上原さんより  1985年ザ・ビレッジアルファ

上原さんより  1987年ザ・タワーⅠと1989年のⅡ

 「上原君、少しやりすぎだぞ。」
 ザ・タワーの設計をしていたある日、柴田社長からこのように言われました。関光策さんとの仕事で建築設計以外の相談にも乗っていたのは確かですが、全ては建築設計のための一環のつもりでした。しかしボスにこう言われれば、つまりは辞めろと言われたようなものです。これはもう仕方がないと自分の事務所であるDCBをつくることにしたのです。

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 独立後しばらくして、上原さんは関光策さんとのつながりが無くなってしまい、更にバブル崩壊で予定していた他のプロジェクトも全てストップとなり、窮地に立たされました。
 動いているのはデベロッパーの分譲マンションくらいだが、土地を確保したら竣工目指してまっしぐらという仕事なんてやる気も起きないし、困ったからと言って手をつけるというのもどうなのか。
 悩んだ挙句、元ボスの姿が頭に浮かんできたということです。ホテルというものは建築家の仕事ではないと言われた中、柴田さんはその道の専門家として極められたではないか。
 そうだ、分譲マンションにもホテルと似たところがある。今までのマンションとは違う全く新しいプランを考え、そのプロトタイプの提案ができるなら、やってみる価値は、ある。



 アイデアを実行に移す力、観光企画設計社で磨いたコストコントロール力、そして偶然の出会いを引き寄せる力、これらを総動員して時代を乗り切って来られた上原さん。80歳になられる現在もこれまでの常識にとらわれない新しいプロジェクトにチャレンジされています。
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