上遠野先生は
恵山岬灯台を仕上げると、今度は白神岬灯台の戦災復旧工事へ向かいました。
竹中工務店といえども、当時は鳶・土木・鉄筋・左官・大工は直接雇用、材料も直接調達であったそうです。戦後の配給制時代ではありましたが、戦災復旧工事だけに通常調達よりは楽だったかもしれません。函館からか隣町の松前町から調達したか、どちらにしても灯台工事は陸の孤島であって、途中からは人力運搬になったに違いありません。
現在は灯台の下に国道が通っていますが、当時はまだ細い山道だけという中、寂しく熊の恐怖にも怯えながら行う工事はかなりな極限状態だったのではないかと思われます。