懐かしい風景

nostalgic/2021

昭和の風景 大通東5丁目付近

2021.08.26

 いつも拝見しているブログ「札幌時空逍遥」。昨日の話題「大通東5丁目に抱いた茫漠感」に唸りました。

 茫漠感を抱く理由は、昔々豊平川の分流がここに流れていたり、それ以前にここを流れていたフシコサッポロ(古いサッポロ川)の氾濫起点地のようだったり、という土地の記憶が思い起こされるということでした。

 これを読んで、私の西宮の沢の実家(建った1977年当時は手稲宮の沢)を想いました。ある日私は、実家が建つ前の様子を確認しようと図書館で古地図を閲覧し、愕然としました。家が建つ前、そこに川が流れていたのを見てしまったからです。1981(S56)年の56水害や、その2年前にも実家を含めた付近だけが浸水したのは、こういうことだったのかと合点がいきました。

2020年の解体工事

 ところで私も、この大通東5丁目付近のことが気になっていました。下見板張りやモルタル塗りの住宅が、時間が止まったようにたくさん残っていたからです。それらは、肩を寄せるように詰めて建っていたり、道路に沿わずに建っていたり、木造民家の建てこみ具合が懐かしい風景でした。

 2003年のマンション建設ラッシュ時、こんな会話を小耳に挟みました。
「この付近は地権者が多過ぎて複雑なんだよ。札幌にいなくて連絡の取りにくい人も多いし敷地も細かいからね。」
 不動産屋とデベロッパー担当者と思しき2人の会話から、お宝の土地を目の前にしてお手上げ状態といった雰囲気が伝わってきました。



 1928(S3)年発行の「札幌市全図」に大通東4~6丁目を確認すると、付近一帯が「大きな空き地」や逆に「細分された敷地」になっていたことがわかりました。しかし、何故ここだけ特別にそのような扱いだったのでしょうか?更に遡ると、豊平川の分流は1889(M22)年位までここを流れ続け、川が無くなった後もこの地区だけポッカリと1924(T13)年位まで開拓が進まなかったようなのです。かくして、地図上へピンクに塗ったとおり、道路の開鑿が区画内部へ行けずに中途半端に終わっているように思われるのです。

昭和3年発行「札幌市全図」より

 赤四角が現在工事中の「貯留浸透施設」で、黄色が当時の空地や細分敷地です。水色は地図中の表記から推察するとひょっとすると簡易宿所で赤は宿紹介所ではないかと思われます。緑は地図中で職業紹介所と表記がありますが、水色の簡易宿に寝泊まりするいわゆる日雇労働者の斡旋場だったのではないでしょうか?

Yahoo地図 より

 茫漠感の具体的な理由は、本当はここにあるのではないでしょうか?家を建てたり道路を開鑿できなかった制限が、もしくはそれらをやりたくても躊躇しなければならなかった状況があったのではないでしょうか。では、どんな制限があって、どんな躊躇する状況があったのでしょうか?土地の低いところに何が起こったのか。そして明治・大正・昭和初期の人々がその土地をどう見做したのか。


 「札幌時空逍遥」で、更なる斬り込みをしてくれないかな。
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