田上 義也 作品アーカイブス

tanoue/1956

木呂子敏彦邸

tanoue/1956年

札幌市西区山の手3条

現存せず

設計プラン(スケッチパース)「田上義也建築作品抄=’64」住宅サロン社1964年より

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実際に完成した姿北海道新聞 昭和35年2月21日より

 農業研究者・教育者・アイヌ研究者・お役人等、様々な肩書きで知られた木呂子敏彦さん。北海道教育委員会に勤められていた時は、田上先生と共に新しい学校校舎のあり方を考えられたと伝えられています。また、ユースホステル普及に尽力され、恐らく、田上先生を施設設計者へ推薦したパイプ役になられたのではないでしょうか。当時、建築設計の仕事に復帰されたばかりの田上先生にとって、木呂子さんと北海道銀行の島本頭取は頼るべき大きな2本柱だったに違いありません。

 そのような木呂子さんが山の手に建てた住宅です。半円形の屋根で北面を閉ざし、南面に窓を並べてメリハリのついた姿が特徴です。いつも忙しい木呂子さんは、雪下ろしをしないですむ要望をこの屋根の形状に託したのでしょう。この半円屋根の下に生まれたスペースは、大きな収納として活用することで各室から押入れを無くすことに役立ったようです。また、思い切って和室をも無くし、すべてフローリングの床仕上げにベッドでの寝起きを決断されたようです。勝手口の無い台所には男女平等の空気が流れ、今までの古い生活にオサラバした新しい現代生活を期待させます。さらには、トイレの上にドラム缶を仕込んでモーターで揚水し、その水を水洗に活用するという実験も行っています。

 徹底的な合理と先取の精神で計画されたそんな木呂子邸に1つだけ謎があります。1964年の田上義也建築作品抄に掲載されている木呂子邸が、スケッチパースのみで竣工写真が載っていなかったのです。昔の北海道新聞の「お住まい拝見コーナー」に掲載されていた写真を見て、その意味がやっと分かりました。設計プランと完成した写真を見比べると、1階のテラス窓が腰窓で納まり、そして2階のバルコニーが無くなっていることがわかりました。プラン通りに行かなくて残念ですが、恐らく予算の問題だったのでしょう。

ペチカを通して居間、洋間(カーテンで部屋間仕切り)北海道新聞 昭和35年2月21日より

ペチカで煮炊きできる台所北海道新聞 昭和35年2月21日より

はめころし窓の脇は外開きが可能な2重窓!北海道新聞 昭和35年2月21日より

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