田上 義也 作品アーカイブス

tanoue/1959

西条八十の歌碑

tanoue/1959年

函館市日乃出町25 啄木小公園内
 1958(S33)年、田上先生は、西条八十を連れて画像奥に見える石川啄木像を訪れました。啄木像を前にして、西条八十は詩を詠んだそうです。

 眠れる君に捧ぐべき
 矢車草の花もなく
 ひとり佇む五月草
 立待岬の波静か
 思い出の砂ただ光る

 捧 啄木 西條八十  


 この思い出話をライオンズクラブの会合で披露した田上先生、函館ライオンズクラブと函館東ライオンズクラブから歌碑建立の設計依頼を受けられたのだそうです。
 碑裏

 昭和三十四年九月三日着工
 昭和三十四年十月廿三日完成
 函館ライオンズクラブ
 函館東ライオンズクラブ
 設計者 田上義也
 函館市東川町 彫刻人 林貞蔵


 歌碑は、碑石を支える御影石を大谷石で取り囲んだ構成となっています。そして、モルタル仕上げの地面に玉石を埋め、周囲をぐるりと鉄平石で縁取っています。私は、歌碑デザインの過程を下記のように想像してみました。

 碑石は仙台石ですが、まず始めにこの石を使用するという条件があったと仮定しましょう。石川啄木故郷の東北地方にあやかって宮城県産の石ということだったのかもしれません。さあ、この石とどんな石を組み合わせれば良いでしょうか。この年4月、師匠フランクロイドライトが亡くなったという報せを聞いたばかりの田上先生、帝国ホテルの設計で使用した宇都宮の大谷石のことを思い出していたタイミングだったのではないでしょうか。北海道に来てから、しばらく使っていなかった大谷石。しかし、師匠追悼の気持ちもこめて、再び向き合い使ってみようと思われたのではないでしょうか。それが可能かどうか石工に尋ねてみると、大谷石採掘の機械化と全国へのトラック流通が始まったばかりだとわかり、「やってみましょう。宇都宮から運んでくる途中で碑石を宮城で積みましょう。」ということになったのではないかと思うのです。
 碑石横にある飾り石は、建立費用を拠出した函館ライオンズクラブと函館東ライオンズクラブの証を示しています。すなわち、函館市章の巴柄を立体的に起こし、ライオンズクラブの紋章を彫り込んだものです。ライオンズクラブの紋章だけで十分だったはずなのに、函館市章を組み合わせたのは何故でしょうか。私には、この巴柄の立体感がグッゲンハイム美術館に見えて仕方ないのです。言うまでもなく生前のライトによって設計され、この年に完成した美術館のことです。しかし、上部が広がり裾が窄まった形の美術館に倣ったデザインにしたはずなのに、誤って裾広がりにしてしまった石工。完成した飾り石を見た田上先生は、本当は天地逆だけど、まあいいかと、笑って許したと思われます。


 このように歌碑は、師匠ライト先生を偲んだ材料とデザインを採用しつつ完成したものだと言えそうです。


 師匠が亡くなられた後、より自由に自分らしさを発揮されるようになった田上先生。大谷石の採用は、過去の客観視と師匠への感謝とで再び可能になったと思われます。この後、小原邸・森吉邸・植田邸・網走市郷土博物館新館で印象的に使われ、その後も継続的に採用され続けたのです。また田上先生は、歌碑完成の翌月にチャーターメンバーとなられて札幌エルムライオンズクラブを設立させました。クラブでも人脈を広げ、ますます旺盛な設計活動のきっかけづくりとして活用されたようでした。
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