ホッケン研 訪問取材

第11回

坂本直行邸

田上建築制作事務所 田上義也

1965(S40)年

(有)牧内組

札幌市西区宮の沢2条1丁目7-20
 このたび貴重な機会に恵まれて、NPO歴史的地域資産研究機構 れきけん様の「坂本直行氏住宅兼アトリエの実測調査」に加えていただきました。つい最近、この住宅の施工を請け負った牧内組 牧内社長の息子様たちから昔話をお伺いしていたばかりだったこともあり、ちょっとした因縁を感じました。建主は北海道出身の山岳画家として親しまれている坂本直行さんで、田上先生の設計により1965(S40)年に完成したものです。1965年といえば田上先生の戦後期活動の大きなヤマ場となったと思える年であり、物件数も多くどの作品にも濃密なデザインが施され、田上先生のファンの1人としてどの作品でもよいからこの目で確かめてみたいと常々思ってきたところでした。今回はその中でも特級品ともいえる坂本直行邸ということで、各所の寸法をしっかり記録しつつ細部デザインに触れられる最初で最後の機会となるだろうと肝に銘じ、参加させていただいたのです。

竣工時と2021年比較 左画像すまい 住まいの研究社 昭和42年12月発行 より

 この住宅において、いつもの田上先生らしさが見られるポイントは、①白く塗装された軒天井 ②その頂上際にありガラリで装飾された小屋裏冷却窓 ③バルコニー全体に渡るパーゴラ ④バルコニーの手摺についた六角形の装飾 ⑤玄関横の大谷石壁面 ⑥他の住宅に例のない高床RC造の基礎 です。ここでは特に④⑤⑥に注目して坂本直行邸のデザインに迫ってみたいと思います。

バルコニーの手摺についた六角形の装飾
 バルコニーの手摺についている六角形の装飾は原色の青と白による6つの三角形に分割され、細い木材で縁取りされています。実測調査時には既に無くなっていましたが、十勝広尾時代に暮らしていた家の古材を活用したという階段手摺には赤や白の四角形の装飾(上掲画像)もされていて、バルコニーから階段にかけてカラフルな華やかさを演出していました。このデザインは元を辿れば師事したフランクロイドライトの幾何学装飾へ行きつくのでしょうが、この住宅においてはアイヌ文様からの影響も伺えます。同年1965年に竣工した北海道銀行白老支店では、坂本直行邸同様の切妻三角屋根の建物へ六角形の窓を横一列に連続させ、大きさの異なる四角形の壁面を配してアクセントを添えていました。田上先生は「デモクラシイな庶民の銀行として、田園風な形式とした。白老いのアイヌ民族のイメージを、マドや床、天井に、幾何学的にデフオルメして見た。色彩的にも彼れらのユニークなトーンを使ってみた。」と説明しました。また同年、金本ビルのファサードにアイヌ文様らしいデザインの金属グリルを連続して取り付けた例もあり、ここでも田上先生は「前面のバルコニーとグリルは、アイヌの作品をデイホルメしたものである。」と説明しました。
 田上先生はアイヌ民族に敬意を払う坂本直行さんの家にはアイヌ文様を想起させる装飾で仕上げることが相応しいと考えたのではないかと思われます。また、この他にも竣工時は北海道開道百年を3年後に控え、民族的なものや歴史的なものへの再評価の高まりを感じ取った田上先生はアイヌ文様を自身の設計に取り入れることで北海道の設計者たる独自性を得ようとしたのではないかと推測できます。これ以降、更に積極的に採用したものとして1967年の弘前相互銀行札幌支店、1968年のホテルアカシアを挙げることができます。

大谷石が貼られた壁面

 玄関右手、ランタン風の玄関灯と表札のある壁面は石貼りで仕上げられています。採用された石種については記録がありませんが、建築工事を請け負った牧内組 牧内定馬社長奥様の記憶によると坂本邸新築工事で余った石を牧内邸新築工事で使用の際、田上先生本人から大谷石だと教えられ、特に印象に残ったとのことでした。また、実際に貼られた石を観察すると、その脆い肌触りや黄色味がかった石の色、茶色のミソの含まれ具合が大谷石独特の特徴だろうと思われます。大谷石は栃木県宇都宮市大谷町で採掘される石で、1922年の帝国ホテルの建設に際して採用され注目されました。栃木生まれの田上先生にとって馴染み深い石であるはずですが、北海道で設計活動を始めてからは長い間、大谷石を採用してきませんでした。転機は1959年の西条八十の歌碑です。田上先生は碑石を支える御影石の周囲を大谷石とみられる石で組むデザインとしました。宇都宮の大谷石採掘場では1957年から採掘の機械化が開始され、その頃よりトラック輸送で全国各地に輸送が可能になったことから大幅な増産となっていたそうです。このような採掘の工業化や流通の変化を背景に以前に比べて大谷石の採用がしやすくなったと考えれば、この石は大谷石である可能性が高いと思われます。また、碑の計画直前に師フランクロイドライトが亡くなったことを踏まえると、田上先生は採用に積極的に取り組んだに違いないと思われるのです。
 田上先生はこの歌碑以降、1960年の小原邸森吉邸、1961年の植田邸でも玄関周りの壁面に大谷石とみられる石を採用し、それ以後も継続的に使用しましたが、材料に高低を繰り返す横縞のコンポジションとすることでリズムをつける方法を採っていました。坂本直行邸では材料毎の表面に深浅をつけたりポイントに小さな穴を開けたりして新しい表現に挑戦したようです。また、1961年の網走市郷土博物館新館の設計図には石貼箇所に「小樽桃内石壁」との表記がありました。この石(札幌時空逍遥 2015年9月9日のブログ)は小樽市桃内地区産の黄色味がかった軽石凝灰岩・凝灰質砂岩・凝灰角礫岩とされますが、大谷石では北海道東部の網走までの運搬には難があり、軽石凝灰岩の大谷石に類似の石質と色を求めて北海道内の小樽桃内石を指定したと推測できます。田上先生がここまで大谷石や小樽桃内石に固執したのは、自身のルーツ再確認ばかりでなく、その温かみある柔らかな石肌が雪景色に映えると考えたのではないかと思われるのです。

住宅を軽々と持ち上げた鉄筋コンクリート造の地階部

新住宅 1966年5月号 より

 この住宅は、高床に持ち上げられていることも大きな特徴となっています。住宅を支える地階部の基礎は鉄筋コンクリート造で、実測調査時は全面右側から後方左側へ貫通するように出入りできる開口部をとってありました。竣工時はこれらの他にも開口部があったようで、平面図では巾寸法2,730mm程で各面に2ヶ所ずつ合計8ヶ所配置していました。このように開口部を多くとることによって、地面からの湿気や雪から木材の痛みを防ぎつつ通気性も確保し、同時に見た目の軽さを演出させ付近の木々の風景に馴染ませたように見えます。

計画完成透視図 れきけんアーカイブ所蔵

計画では木の高床プランだったものを鉄筋コンクリート造に変更して更に高さを増したのは、屋根から落ち積もった雪で家の土台を腐らせたくないという直行さんからの要望を受け入れたものと思われます。
 施工を請け負った牧内組の牧内社長は、北海道建設躯体工事業協同組合(現 北海道型枠工事業協同組合)の役員をされていて、住宅における鉄筋コンクリートの使用について技術の指導的な立場におられたそうです。ですから、当時としては高度な施工を求める田上先生の設計意図へ応えた牧内組の技術によって実現されたと考えられそうです。
 また、階段踏板も鉄筋の仕込まれたコンクリート製で、厚み30mm巾330mm長さ3,000mmのものを2点支えとしていました。この長さを2点支えで飛ばすことによって、軽々とした印象を更に補完させたデザインとなっているようです。基礎コンクリートの打設で余ったコンクリートを廃棄せず、現地で型枠を作って別な部分へ活用することは当時としては珍しいことではなかったそうです。計画時では木製の踏板であったものを現場でコンクリート製に変更したのか、元からコンクリートが余ると見込んで踏板制作を計画していたのか、設計図が無いために詳細はわかりませんが、木板ではすぐに傷んでしまったでしょう。

 以上の事から、坂本直行邸にある六角形や四角形の装飾は、従来からのライト譲りの幾何学装飾がアイヌモチーフの影響を受けながら変化しはじめた初期の物であり、大谷石の装飾は1959年の再採用から見られなくなる1972年頃までの中間期だったと位置付けられます。基礎高な鉄筋コンクリートについては、この住宅にのみ見られる特別なもので、直行さんの要望を素直に汲みつつも田上先生らしさを加えた成功例と言って良いと思われます。


「坂本直行邸調査報告書 2021年11月 発行 特定非営利活動法人 歴史的地域資産研究機構 (れきけん)」より少し改刪して掲載


 坂本直行邸はこの翌年明けに解体されました。惜しいと思いながらも、実測調査や細部の記録ができていたので解体を受け入れることができました。これからも危機に見舞われる田上作品が出てくるのでしょうが、せめて調査・記録が出来ればと祈るばかりです。


竣工時の居間 北国の住まい6 より

2021年の実測調査時

竣工時と実測調査時の階段ホール 手摺のデザインがカッコ良かった

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