ホッケン研 訪問取材

第7回

W邸

2015年09月26日9:00~11:30  曇り

越野 武

1969(S44)年12月

木造2階建 162.7㎡

風穴建設

札幌市中央区宮の森3条11丁目

竣工時 1969年 「新住宅」昭和46年1月号 ㈱新住宅社)より

現在 2015年 グレイトーンフォトグラフス 酒井広司

 空中に浮いた外観を持ったW邸。
 一度見ると、忘れることができなくなります。この住宅の事をもっと知りたいと、設計者の越野武先生を訪ねました。


 「君の弟が設計をやっているだろう。ひとつ僕の家を頼んでくれないか。」
 きっかけは、越野先生のお兄様が商売仲間だったW氏の頼みを聞いてきたことだったそうです。1969年の竣工時、越野先生は北海道大学工学部の助教授でいらしたのですが、講義のかたわらでいくつか住宅設計の実績があることを知っていたそうなのです。

 敷地は宮の森の傾斜地でした。南北の通り沿いで西側の背に急斜面の山を抱え、北側へ下りていくという難しい土地です。当時32歳だった越野先生は「一切をまかせるから。」というW氏の一言に、一肌ぬいでやろうという気分になられのだそうです。

「新住宅」昭和46年1月号 ㈱新住宅社)より

グレイトーンフォトグラフス 酒井広司

「新住宅」昭和46年1月号 ㈱新住宅社)より

               グレイトーンフォトグラフス 酒井広司
現在は空中に浮いたバルコニーが囲われて部屋になっている。それにしてもリッチなバルコニーであった。 その天井がコロニアル風仕上げ。ここに越野先生ならではの足跡が刻まれている。

 しかし、北に下がる土地へ素直に建物を配置すれば、北側が息詰まる空間になってしまいます。この解決には、北側にあたる部屋を地上から持ち上げ、太陽に向けた大きな窓をつけました。そして、その頃よく考えられていた「居間なるもの」に斬り込まれました。
 「三点セットのある居間が団らんに結びつくという考え方は、どうも怪しい。居間とは本来はもっともっと多彩なものであるはずで、その使われ方も家族の生活の歴史と共にどんどん変わっていくものではないのか。」
 この解決に、居間となるべき空間を3つの床レベル「上・中・下」に拡散・分割して秩序立て、あとは長い時間にわたる、住む人の勝手な暮らしを期待されたのだそうです。こうしてW邸はこれら2つのコンセプトをもたせつつ、施主夫婦と息子夫婦のために設計されたのです。お話をお伺いしますと、ますますその空間を体験してみたくなりました。


 「お施主様からは苦情を聞いていないのだけれど、どうも息子さん御夫婦はご満足ではなさそうだ。訪問はどうかなあ。」
 「ですが先生、外から見た感じではWさんは大事に住まわれているようです。改修したところもあるようですが、原設計を活かそうと配慮したように見えるのですが・・・。」
 「・・・それなら一度、ご様子を伺ってみようか・・・。」
 というわけで、本日お邪魔することができたのでした。

 出迎えて頂いたのは、施主の息子さんであるWさん、つまり「あまりご満足ではなさそうだった御本人」と、その娘さんにあたるY子さんでした。

グレイトーンフォトグラフス 酒井広司

 玄関から居間へのドアを開けると目の前に小さな「下の居間」と広い食卓スペースである「中の居間」を包んだ立体的な吹抜け空間が登場し、その迫力に思わず息を呑みました。吹抜空間の東面は天井までのガラススクリーンで、反対側の西面も目線から下部全てがガラスとなっていました。つまり、外から居間を通して家の向こうの山すそまで見透かせるという大胆なデザインだったのです。
 「父はどんな家なのか一言も口にすることはなく、引っ越して初めて見た時の驚きと言ったら・・・。普通、家と言ったら1階があって2階があってでしょう?」
 設計案では、床の仕上げを外部テラスから連続する石敷きとして、外部の木羽目板壁が室内につながり込むという内部と外部の中間領域的なワイルドなものだったそうです。さすがのW氏も居間の床が石敷き仕上げという事には抵抗があったようで、これはボツとなってしまいました。

 「かなり開放感のある居間ですね。」
 「気持ちが良いのですが寒くてね、9月になればストーブを焚き始めますよ。東面のガラス壁に透明アクリル板をセットしてみたのですが、効果はなかったですね。」
 当時は断熱の考え方がかなり普及し、ようやく50ミリ厚の断熱材を使用し始めた頃です。
 「先生、この大胆な設計の実現にはどのような手を打たれたのですか?」
 「寒さについては、100ミリの断熱で性能をアップさせ床暖房もできていれば、なんとか心配せずにすむだろうとね、エイヤっとやってしまったのだよ。若気の至り、いささか大胆すぎるチャレンジだったかな?」
 正直でお茶目な御回答に我々は大いに満足しました。

 「ところで、西面山側の窓にフィルムが貼られてせっかくの景色が見られませんが、これはどうして?」
 「裏藪から家の中を覗かれているような気がしまして・・・。お風呂もガラス張りの丸見えだったんですけど、私も年頃になって・・・。業者さんにフィルムを貼ってもらいました。」とはY子さんの談でした。

Y子さんのベッド 「新住宅」昭和46年1月号 ㈱新住宅社)より

「新住宅」昭和46年1月号 ㈱新住宅社)より

         グレイトーンフォトグラフス 酒井広司
「丸い照明のままの方が良かったね。」とは、WさんとY子さん (中の居間にて)

 鉄骨の手すりを掴みながら階段を登り、吹抜け上部の「上の居間」に到達。この先は地上から浮いた広いバルコニーのはずなのですが、現在はそのバルコニーを囲うように改造がされ、Y子さんの部屋として使われたそうです。左側には、息子さん夫婦のための寝室と子供部屋がありました。
 「住み始めてすぐ、兄弟たちも一緒に暮らしましてね。計画通りの使い方はできなかったのです。」
 住む人による勝手な暮らしを期待した越野先生の狙いは、想定外の出来事もあり、それ以上に達成されたようでした。

 「屋根や外壁に痛みが見当たりませんが、メンテナンスはどうされているのですか?」
 「妻が定期的に頼んでいたのですが、今年亡くなりましてね。庭の手入れもできなくなったし、どうしようかと思っていたところなのです・・・。」

 完成から46年経過したW邸、まさに運命の分かれ道に立たされているところでした。どちらの道に進むのか、しっかりと見守っていきましょう。

 ところで、W邸裏にある「少年山」の事。
 戦後間もなくの頃までさかのぼりますと、ここらあたりは越野先生の子供時代にスキーで遊びまわったところだそうです。お手製の立派なジャンプ台もあって、そこはミディアム・ヒル・デビュー前の少年ジャンパーたちの重要な練習場所だったそうなのです。W邸の裏山まで見通せるガラススクリーンは、実は彼らのランディングバーンの流れを断ち切らないようにデザインされたものだったのです。越野先生の懐かしい記憶がデザインとして取り込まれていたW邸。そんな歴史を感じながら改めてW邸を眺めてみますと、昔の少年たちが笑顔一杯で窓ガラスを滑り抜けてくる姿が見えてくるようです。そして少年ジャンパーだったかもしれない施主のWさんは、そのような越野先生の心憎い設計デザインに満足されていたかもしれません。
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