ホッケン研 訪問取材

第12回

ホテル三愛
(現 札幌パークホテル)

坂倉準三建築研究所・大成建設設計部

1964(S39)年6月

鉄骨鉄筋コンクリート造
地下3階 地上11階 塔屋3階
建築面積4,335㎡ 延床面積28,814㎡

大成建設

札幌市中央区南10条西3丁目1-1

菖蒲池からの眺めグレイトーンフォトグラフス 酒井広司

 2015年、札幌市は国際会議場(MICE)を誘致するという発表を行いました。しばらくしてその建設場所を札幌パークホテルの敷地に決定し、ホテルを建替えて国際会議場と一体整備するという方針を打ち出しました。

「坂倉準三さんの建築が失われてしまう。せめてホテルが営業しているうちにその魅力を深く味わいたい・・・。」

 ホッケン研にとって正統かつ本命な取材対象でした。ところが2019年になって新型コロナウィルスの流行のために札幌市の国際会議場誘致が再検討となり、ホッケン研の取材希望も足踏み状態となってしまいました。
 2022年の春になり、コロナウィルスの流行も落ち着きを見せはじめてきたので、これチャンスとばかり札幌パークホテルのマーケティング部様へ我々の訪問取材の企画を申し出ましたところ、御快諾を頂くことができました。そこで建築史家の越野武先生をお迎えして、ランチからナイトバーまでゆっくり過ごすこととしたのです。

創業オーナー市村清さん

市村清さんホテル三愛 開業パンフレットより

 札幌パークホテルが、ホテル三愛として開業されたということは札幌市民に広く知られています。リコーや三愛企業グループの社長であり「経営の神様」といわれた市村清さんが、町村北海道知事や原田札幌市長、広瀬北海道拓殖銀行頭取らから要請され、ホテル建設の45億円を含め総額60億円という巨費をかけたものでした。そこまですれば確かに立派なものが建つでしょう。しかし、市村清社長とホテルを設計した坂倉準三さんがどう結びつくのか、まずはこれが大きな謎でした。

市村清社長は建築マニアだった!?

 1964年6月竣工のホテル三愛は1962年11月に着工しますが、市村社長はホテルと並行してこれとは別に2つの建築を建てていました。1つは1962年の三愛ドリームセンターで、もう1つは1963年の佐賀県体育館です。ドリームセンターは日建設計の林昌二さん、体育館は坂倉準三さんの設計で、共に戦後モダニズム建築の重要作品です。ドリームセンターの設計にあたり市村社長は「法隆寺の五重塔のように建物中心に大きな柱を立ててビル全体を総ガラス化させた円筒型のビルを」と要望されたそうですが、もちろんその根っこには1950年竣工のフランクロイドライト設計によるSCジョンソンリサーチタワーがあったと思います。東京の1等地である銀座にあのようなガラスビルを建てたら、たいそう話題になるだろうと考えたのではないでしょうか。一方、体育館の方は吊屋根工法の構造ですが、坂倉準三さんの最新アイデアに期待して県民を驚かせようとしたのかも知れません。市村社長は建築の力を知っていて、自身の経済力と掛け合わせ、その化学反応を提示しようとしたのではないかと思います。

東洋レーヨン基礎研究所坂倉建築研究所様ウェブサイトより

 ところで、開業時の三愛ドリームセンター内には東洋レーヨンのテナントがあったそうですが、同年に東洋レーヨンは鎌倉に建てた基礎研究所を坂倉準三さんに設計依頼していました。市村社長はこれを見たことでしょう。そして、研究所の青いタイル貼りに魅了されたに違いなく、派手な外観でなくとも落ちついた建築美があると理解されたのではないかと思います。恐らくこうして、ホテル三愛の設計を日建設計にではなく、坂倉準三建築研究所に依頼されたと思えてくるのです。坂倉研究所がそれまでホテル設計の実績がほとんど無かったにも関わらずです。そして坂倉さんにこうリクエストされたのではないでしょうか?

「先生、ホテル三愛もあぎゃん青かタイルで仕上げたいばい。」と。

ホテル三愛におけるデザインの魅力とは

 ホテル三愛は、1964年10月開催の東京オリンピックに伴う国際観光ブームを想定して、その開催前の開業を目指したので、1962年夏に坂倉研究所と設計契約を交わした後すぐの着工を準備しました。このように十分な時間が無かったので、坂倉研究所は外観とパブリックスペースのみを担当し、大成建設設計部は客室と宴会場の方を担当して設計作業を行ったと伝えられています。

 さて、坂倉研究所ではスタッフの北村脩一さんをチーフとしたグループが設計をはじめました。実はこれに先立ち、北村さんは坂倉準三さんと共にデンマーク コペンハーゲンに完成したアルネヤコブセン設計によるSASロイヤルホテルを視察に行っていたそうです。今でいうところのデザイナーズホテルの先駆けとなった建物で、このホテルの雰囲気が竣工時のホテル三愛からも感じられるのは、視察の賜物なのでしょう。それでは、ホテル三愛におけるデザインの魅力どころを下記の通り見ていきたいと思います。


「めがね椅子」

 ホテル三愛のためにデザインされたというめがね椅子は、4脚1組で配置されました。ヤコブセンがエッグチェアやスワンチェアを同様に配置したSASロイヤルホテルのロビーとそっくりです。黒や緑または赤など強い色の張地を採用したのは坂倉さんの師 コルビジェ譲りともいえそうです。当時、坂倉さんの建築には長大作さんが家具デザインをされていましたが、今回は坂本和正さんによる硬質発泡樹脂素材を駆使したデザインが採用されました。ホテル三愛のロビーを印象づけたインテリアになりました。

メインロビーの「めがね椅子」JAPAN INTERIOR DESIGN 1964年9月号より

リズミカルな「大理石壁面」「サッシ割り」「外部ルーバー」

 横縞模様に貼られた大理石の壁面。エレベーターホール周りは、これまでに行われてきた改修工事を免れて竣工時の姿を保っています。横縞模様に貼られたことで石幅の広さや狭さが浮き出ています。この巾の違いは、コルビジェが多用するデザインをモチーフにしていますが、エントランスのサッシ割りや外部縦ルーバーのリズム、更には塔屋壁面の割付けを思い起こさせ、まるでリフレインの調べが響いてくるかのようです。ところが竣工間近の工事現場に入った市村社長曰く、「何してそぎゃん横目に貼ったばい。縦目に貼んしゃい。」と言って大成建設の工事所長 鮎瀬善郎さんを慌てさせたとのことでした。後日、大成建設 南専務の説得で横縞のままでおさまりホッとしたという逸話が残っています。また、数字の書かれていない階数表示灯は北村さんがSASロイヤルホテルで特に印象に残り、このホテル三愛にも実現したとのことでした。先にエレベーターに乗った客が何階に宿泊しているのかを明らかにしない心遣いは、現在でも珍しく思えます。

エレベーターホール大理石貼りの壁面グレイトーンフォトグラフス 酒井広司

左-エントランスのサッシ割り   右-外部縦ルーバーグレイトーンフォトグラフス 酒井広司

「ロビーのシャンデリア」

 SASロイヤルホテルの照明は、小さなダウンライトが点々とある中に存在感のある大きなペンダントライトでアクセントをつけています。ポールヘニングセンデザインのアーティチョークが一層輝いて印象に残ります。ホテル三愛もこの空間づくりを参考にしたと思われ、坂倉さんもヤコブセンと同様に外部デザイナーを起用することで空間に華を添えました。そのデザイナーとは立体抽象作家として注目され始めたばかりの多田美波さんでした。めがね椅子との相性も良く、ロビー中央から地下への階段吹き抜けに灯ったシャンデリアは大きくとも優し気で、チェックインする宿泊客はこれを眺めて心休まったことでしょう。

左-ホテル三愛のシャンデリアJAPAN INTERIOR DESIGN 1964年9月号より   
右-SASロイヤルホテルのポールヘニングセンによる照明アーティチョーク

「光の大砲」

 さて、ロビーから3階宴会場へエスカレーターで上がる途中の天井には連続するトップライトがありました。おや?このイメージはどこかで見たことがあるぞと、ル・コルビジェの作品集を捲ってみたら、答えが見つかりました。

3階宴会場前のトップライトホテル三愛 開業パンフレットより

1960年 コルビジェ ラトゥーレットの修道院LE CORBUSIER TASCHEN 2006より

 コルビジェが設計したラトゥーレットの修道院にあるトップライトは礼拝堂の祭壇上にあり、屋上にくっついている大砲状の筒を通して光を導き入れています。このことに気が付いてすぐ、グーグルアースでホテルを空から確認してみました。果たしてやっぱり、大砲があったのです。現在は天井の穴が塞がれているので気がつきませんでしたが、ここの他にもいくつかの大砲がホテル3階の厨房を照らしていたようです。コルビジェのデザインを活用して空間に彩を添える坂倉さんや北村さんの姿勢に、弟子としての自尊心や師匠を慕う愛を感じました。我々がここで記念撮影をせずにいられなかったのは、言うまでもありません。

大砲の横で記念撮影 酒井 橋村 登尾 越野先生 札幌パークホテル伊藤MG 照井 山下グレイトーンフォトグラフス 酒井広司 ※撮影時のみマスクを外しています

「北国の窓 結露への対処」

 「当時、東京の設計者にとって北海道の建築を手掛けることは、一方ではちょっと怖いなあという感じを持ったものです。」とは越野先生のお話しでした。つまり、結露対策や防水、断熱工事についてノウハウの蓄積が乏しい、また冷暖房設備の考えが本州とは全く違うので、いつも通りの設備計画をすると問題が生じるのではないかと懸念されるということでした。坂倉事務所もそうだったようで、坂倉さんは設計の最初期段階から専門家の意見を聞いていたようです。その専門家とは本多政富さんという方で、三機工業札幌支店内にホテルの客室を再現して窓の結露実験をしながら最適な窓下ファンコイル設備を生み出したという苦労話が残っています。客室以外の結露対策にはダクト内にブースターヒーターを設置したという記録がありました。

左-客室ファンコイルの詳細図「建設画報 特集ホテル三愛」 光元社 昭和39年9月発行より
右-客室窓台のファンコイルダクトグレイトーンフォトグラフス 酒井広司 

 また、暖房設備を充実させながら短い夏季の冷房のために余計な設備を設置するのは予算面においても面積的にも不経済となるため、これを解決できる吸収式冷凍機という最新設備を導入したそうです。これは暖房用の蒸気を冷房に応用できる設備で、当時はまだ国産化されていなかったものであり、三機工業がアメリカから3台輸入したうちの1台をここホテル三愛に採用したとのことでした。

左-吸収式冷凍機「建設画報 特集ホテル三愛」 光元社 昭和39年9月発行より
右-グリルマリモの窓と床の取り合いにあるブースターヒーターダクト照井康穂

竣工時からある地下の中央制御室が現役稼働中グレイトーンフォトグラフス 酒井広司 

「庭園から菖蒲池そして藻岩山まで借景とする眺め」

 ホテル三愛が、札幌に国際観光ホテルをもう1棟欲しいという政財界の重鎮達から要請されて建てられたということは先に記した通りです。その熱意は、建設敷地を市村社長に破格値で払い下げるほどだったそうです。しかし市村社長は、ホテル建設以前にそこにあった割烹料理屋「西ノ宮」に隣接する小さな土地を先に手に入れていたというのです。事前情報があって布石を打っていたのかもしれませんが、中島公園や菖蒲池と共にある敷地を見た「経営の神様」は、要請される前からホテル経営の成功を確信していたのではないかと思われるのです。
 ホテルの設計開始と同時並行して造園計画も進められました。北海道大学の明道博教授を委員長として決定されたプランは、藻岩山より源を発した水の流れが中島公園の菖蒲池に拡がり、更にその水が滝石組を経て瀑布となり、ホテル三愛の庭にそそぎ込んでいるという様子を表現したものでした。何とダイナミックなコンセプトでしょうか。そのような風景をただ単に借景とするにとどめず、水の動きまでを取り込むという夢のような計画が本当に実現してしまったのです。ゴーサインを出した市村社長の並々ならぬ意気込みが伝わってきます。庭園を施工した横山造園によって今もその姿が維持管理されています。

客室からの眺め札幌パークホテル20年のあゆみ 中島公園のほとりで より 

 ホテルからの景色には素晴らしい自然が見えるだけでなく、そこに哲学的というべきか神仏的のような概念までも見えてくるような気がしていました。「私共のホテルからの眺めの先に藻岩山が見えますが、ここに1本の軸線があるように感じます。丹下先生の広島平和記念公園の軸線、そしてル・コルビジェの都市計画に通じるものを感じています。」という想いを披露して下さった荒木田総支配人のお話からもこの思いを強くしました。このように立地の魅力を語ることのできるホテルが他にあるでしょうか。札幌中心部の碁盤の目に対してホテルを斜めに振り、菖蒲池と藻岩山に向けた配置プランとしたことについて、誰も反対することなく納得できたのではないでしょうか。

ホテルの位置と向き地図Mapionに加工

「ホテル最上階のせり上がる庇」

坂倉準三さん建築家 坂倉準三 2010年8月1日発行より

 背広姿の坂倉さんはとてもエレガントで、それが建築デザインにも現れているようです。コルビジェの弟子には坂倉準三さんの他に前川國男さんと吉阪隆正さんがいますが、坂倉さんがコルビジェの洗練された1面をよく引き継いでいるように思います。「これは、坂倉さんが東大で建築ではなく芸術を学んでいたことに関係があるかもしれない。」と越野先生がお話され、坂倉さんの珍しい経歴に合点がいきました。

せり上がる庇

 さて、ホテル三愛の最上階には、せり上がる庇があります。その原点はコルビジェのチャンディーガルに建てられた建物群のデザインの中にあると思います。これは坂倉さんが当時たびたび取り入れていたものの1つで、静的な建物にアクセントを与えていますが、あくまでもソフィスティケイトなタッチです。ホテルの前年1963年に竣工した中産連ビルにも似た庇がついていますが、ホテル三愛ではこれを更に追求したように感じます。ホテルの外壁面から僅かにセットバックさせたガラス壁の上にせり上がる庇を載せることで、遠目に眺めるとホテルの最上階に薄くて長い庇が浮かんでいるように見えます。私は、せり上がる庇のデザインが、ここホテル三愛で完成に達したと思っています。

札幌パークホテル11階「なだ万雅殿」より庇裏を見たところ橋村明 

竣工時の最上階天井は せり上がる庇なりにラウンドしていた 「スカイレストラン ローザンヌ」JAPAN INTERIOR DESIGN 1964年9月号より

「ホテル棟とドーム屋根の対比」

 坂倉さんの作品には四角い建物と丸い建物を並べて配置させたものをいくつか見かけます。1962年の呉市庁舎と市民会館、1964年の岩手放送社屋などがそうで、このホテル三愛もその流れの中にあると思います。これらの作品は、まるでトレーシングペーパーに細いペンで描かれた絵がそのまま街の中に現われたかのように、繊細かつ優美です。ホテル三愛における優美さは、平屋レストランの上に載ったドーム型の屋根で表現されました。躾厳しく屹立させたホテル棟に対してドーム屋根をふんわり浮かばせた姿に、たまらない対照美を感じます。このドーム屋根は、内部から見ても浮かんだ天井のようにデザインされていますが厄介な設計だったそうで、構造計算が北海道大学の工学部に持ち込まれたそうです。「確か酒井教授のところで引き受けたはずだがなあ。河辺さんという方が計算していたような記憶があるよ。その時ちょうど僕は学部生だったから、実習として何度か建設中のホテルに行っていたんだよ。」とは、アーブ建築研究所の圓山先生のお話でした。

ホテル棟とドーム屋根の対比グレイトーンフォトグラフス 酒井広司 

グリルマリモの屋上からドーム屋根を眺めたところグレイトーンフォトグラフス 酒井広司 

天井が浮かんでいるように見える竣工時の「グリルマリモ」JAPAN INTERIOR DESIGN 1964年9月号より

現在のグリルマリモ(現 ザ・テラスルーム)グレイトーンフォトグラフス 酒井広司 

鉄骨の立ち上がったところ札幌パークホテル20年のあゆみ 中島公園のほとりで より

「有田焼タイルの壁面と交互配置の窓 本当に最初からその計画だったのか」

 ホテル三愛の外壁に有田焼の青磁タイルが貼られていることは有名です。竣工時、赤レンガの街に突如青いホテルが現れたという驚きに一部では戸惑いもあったそうですが、結局は中島公園と共にある青く美しい姿を理解納得し、皆見惚れることになったのです。青いタイルは坂倉さんお好みの材料だったようで、1961年の塩野義製薬研究所、1962年の東洋レーヨン基礎研究所や呉市庁舎と市民会館、1964年の岩手放送社屋やこのホテル三愛、そして1967年の神奈川県新庁舎へと次々に採用され、坂倉デザインらしさを形づくりました。しかし、ホテル三愛以外の青磁タイルは京都清水焼の大仏タイルだったのです。なぜホテル三愛のみに有田タイルが採用されたのでしょうか?北国の建築にはタイルの剥落といった凍害の心配があるので数種のタイルを試験し最終的に有田タイルが採用されたという記録はあります。でも私には市村社長の『強い推薦』があったと思われるのです。
「先生、僕の生まれ故郷に有田焼タイルという立派な材料がありますばい。ひとつ検討の1つに加えてやってくれますか。」
 市村社長は「経営の神様」です。自分の建物に地元経済界を巻き込むような仕掛けを打つだろうことは想像できるでしょう。または単に故郷の材料をひいきしただけかもしれません。しかし、この想像が当たっていたとしても、私は坂倉デザインの純粋度が薄まったとは思いません。なぜなら、ホテル三愛の青色は他の作品に比べて華やかな色に見え、むしろこの敷地に調和していると思えるからです。青磁タイルは濃淡6色のタイルが混ぜ貼りされ、遠目からはまるで織物工芸品のように見えますが、これには色彩感覚の優れた市村社長の奥様 幸恵さんの意見が活かされているという言い伝えもあります。

6種類の有田タイルが混ぜ貼りされている様子   濃1-2-3-4-5-6淡

 また、ホテル三愛の交互配置されたポツポツ窓も札幌市民によく知られるところです。しかし、これは当時の坂倉さんのデザインの流れに乗っていないと思います。当時よく採用していたのは、コンクリート打ちっぱなしによる日除けのついた外壁です。この繊細なブリーズソレイユは、タイル面と対比されて互いを引き立てあいました。設計チーフの北村脩一さんはホテル三愛の次に担当された神奈川県新庁舎でも、再びブリーズソレイユを使いました。であれば、ホテル三愛でもそのままこれを採用するのが自然だと思われますが、そうはなりませんでした。では何故、ホテル三愛はブリーズソレイユで仕上げられなかったのでしょうか。この答えにもまた、雪国ならではの理由がありそうです。ブリーズソレイユの内側はバルコニー空間でその奥に外壁があります。これではバルコニー内の積雪対処や融雪排水に難しい設計が伴うでしょう。また凍害による日除けそのものの痛みも懸念されます。大きな窓を採用したくてもその断熱性能にはまだ心配のある時代でしたから、室内の温かさを守るために小さな窓にならざるを得なかったとも思います。採用された窓メーカーは不二サッシで、数年前に商品化されたばかりの断熱窓が使用されました。このように、必然的にタイルを貼詰めて外壁面を保護し、信用のおける小さな断熱窓を採用することへ検討が絞られていったのだと思われます。そのような状況の中、窓の配置へひと工夫することになったのではないでしょうか。特殊な窓配置はロンシャンの礼拝堂に原点がありそうですが、ホテル前年に竣工した中産連ビルに採用されたランダム配置に引き寄せられていったのだと思われます。ホテル三愛はランダム配置ではなく高さのそろった交互配置となりましたが、菖蒲池からホテルを眺めた時、水面にきらめく細かな光がまるで窓に転じたかのような錯覚にとらわれます。これを体験しに行ったあなたが美に溺れたと気づいたとき、本当に菖蒲池に落ちているかも知れませんので気をつけてください。

左・ブリーズソレイユのある神奈川県新庁舎(パネル材)1967年ウィキペディアより
右・交互配置のポツ窓・屋上に浮いたように見える庇 札幌パークホテル 1964年グレイトーンフォトグラフス 酒井広司

ホテル三愛オリジナルカクテル「ピムスカップ」

 ホテル三愛の訪問取材では、これまで列挙してきたことを皆で確認して回りました。活動の締めに2階レストランピアレで夕食をとりながら、今日1日の成果を皆で振り返りました。しかしこの晩餐は、「あのお酒」無しでは仕上がらないのであります。今まで我々の要望を快く受け入れてくださった伊藤MGに我々の最後の無理を申し出ました。ホテル開業披露日に振舞われ、その後も11階のバー「エトワール」で提供されたというホテル三愛オリジナルカクテル、その名も「ピムスカップ」であります。事前打ち合わせで何気にリクエストさせて頂いていたのですが、残念なことに「実は今はもう提供していないのです。」と、さらりとかわしてくれた伊藤MGでした。ところが、宴も進んだところで「ピムスカップの再現はやっぱり無理なのでしょうね?」と彼にお伺いすると、「ハイ、もう飲まれますか?」とニッコリしてくれたのです。そしてこうも言ってくれました。
「当時のスタイル、ピムスカップ専用の銀製カップでございます。」
 我々のホテル三愛(現 札幌パークホテル)の訪問取材は、これで完全完璧に仕上がったのでありました。

幻のカクテル「ピムスカップ」橋村明

我々と札幌パークホテルの架け橋となってくれた元鴨鴨堂店主 石川圭子さんをお招きして札幌パークホテル 伊藤MG
(左より橋村・照井・越野先生・山下・石川圭子さん・登尾)※撮影時のみマスクを外しています

訪問取材を終えて

「札幌にもやっと真っ当な建築が建ったと思いました。」
 当時の札幌の様子を新鮮な気持ちでご覧になっていた越野武先生の御感想です。札幌駅前通りを中心として、それまでの木造建築が新しいビルに置き換わり始めた頃でした。しかし、ほとんどのビルはあまりいいデザインとは言えない状況だったのです。そのような中、圧倒的に密度の高いデザインの建築が完成したのだと、今回の訪問取材であらためて認識することができました。

 それからというもの、札幌パークホテルにこれまで以上の愛おしさを感じ、その佇まいだけでなく中島公園と共にある姿がかけがえのない風景であるという想いを強くしました。恐らく私たち札幌市民は、その美しさに慣れ気づけなくなっているのかもしれません。ところで札幌パークホテルの建築的な特徴は、坂倉建築研究所だけによる設計ではないことからなのか、あまり積極的に発信されていないようです。しかし、これまで見てきたように、他の作品と比べて何ら劣ることもありませんし、むしろ特筆すべき点も数多くあると思います。ぜひ、建築マニアだけにとどまらず、札幌パークホテルの美しさやかけがえのなさを札幌市民、そして北海道民に知ってもらいたいと思います。

 アルネヤコブセンが1960年に設計したデンマークのSASロイヤルホテルには世界各地からの宿泊予約が絶えないそうです。我らが札幌パークホテルにもそのようなホテルになりえる格調高いデザイン性があると思います。これを活かそうとする札幌市や議会の立案力、それを理解推進できる商工会の柔軟性、建築設計業界やコンサルタント業界の提案力が育まれてほしいです。そうでなければ私たちは宝物でさえも新しい物に交換すればいいという繰り返しをやり続け、どこまで行っても彷徨い続ける気がするのです。北海道庁赤れんが庁舎や豊平館、札幌時計台など道民市民に親しまれ誰でも知っている建物の1つにこの札幌パークホテルを加えることが出来たら、歴史の深さや巾が増すような、そのような気がします。

札幌パークホテルの美しさを語る越野武先生グレイトーンフォトグラフス 酒井広司

訪問取材当日は越野先生と簡単な講演会をさせていただきましたグレイトーンフォトグラフス 酒井広司

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